沖縄戦特攻から77年、亡くなられた若者を慰霊するのは当然だが、「英霊」として「顕彰」する事を許して良いものなのか?
- 2022/03/27
- 22:25
石垣島より:
特攻隊として国家の戦争に駆り出され亡くなられた若者を慰霊し冥福を祈るの当然だが、
「英霊」として「顕彰」する事は、やがて国家の戦争=「愛国」の戦争として「聖戦」につながる。
顕彰:著名でない個人の功績や善行などをたたえて広く世間に知らしめ表彰する
1945年3月26日石垣島白保飛行場から、
特攻隊として飛び立ち米艦隊に突撃した伊舎堂中佐をしのび慰霊祭。

3月27日の八重山毎日紙面

3月27日の八重山日報紙面
再掲:
インド洋~アジア太平洋地域で進む米軍の再編② 軍事強化される琉球弧の島々、米軍隷属下の自衛隊の再編・強化も進む。 2021/3/28 より
http://ryukyuheiwa.blog.fc2.com/blog-entry-1025.html
伊舎堂中佐らの陸軍特攻第1号として石垣島から出撃して、
76年目の3月26日、特攻隊「慰霊」ならぬ「顕彰」碑で自衛隊、防衛協会の皆さんが献花、拝礼。

2021年3月27日の八重山日報紙面
陸自配備をにらみ、石垣港・新石垣空港使用の常態化を狙う陸・海・空自衛隊。 5月14日には海自掃海艇「くろしま」と補給艦「ときわ」が石垣港に 2018/06/16 より
http://ryukyuheiwa.blog.fc2.com/blog-entry-604.html
3月30日、近海練習航海の海自艦艇3隻が石垣港に入港、特攻隊顕彰碑にそろってお参り。
https://youtu.be/4JncynHy1aE
埠頭から、新港地区から、途中新港地区の入り口にある特攻隊「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」に幹部候補生学校の卒業生がそろってお参りする姿が、そして海上から捉えました。海保の艦艇と合わせ石垣港がまさに「軍港」となっている姿をご覧ください。

参考資料:伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑
伊舎堂大尉は1945年3月26日誠第17代飛行隊の隊長として隊員3人と特攻機で白保飛行場を出発。同日午前5時50分慶良間郡西海上の米航空母艦に体当たり攻撃し戦死。白保飛行場からは計31人が突撃死している。
顕彰碑正面には:
大日本帝国陸軍 第八飛行師団誠第十七飛行隊
伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑
背面に記された碑文:
大東亜戦争終結六十八年を経たわが国は、戦後の荒廃を乗り越え、平和で豊かな生活を送ることが出来ています。現代のわが国の平和と繁栄は、国家存亡の危機に殉じた英霊と戦争の犠牲となった多くの方々の礎によってもたらされたことを心に留め、その史実を後世に伝えていかなければなりません。大東亜戦争末期、戦況の打開を図るべく、大日本帝国陸軍は特別攻撃隊を編成し石垣島にあった特別攻撃隊の基地からも、鎮護の任に当たるべく、若者達が身命を擲って出撃し、千尋の海に散華しました。
大日本帝国陸軍第八飛行士団誠第十七飛行隊隊長であった石垣島出身の伊舎堂用久大尉率いる伊舎堂隊四機と直掩機六機は、昭和二十年三月二十六日午前四時に、石垣島白保にあった基地より陸軍特別攻撃隊の先陣を切って出撃し、慶良間列島西方海上の敵空母軍に特攻を行い、その戦果は全国に大々的に報じられました。
郷土と国を愛し、悠久の大儀に生きる精神により散華した伊舎堂用久中佐(特別攻撃後、二階級特進)と隊員の遺功を後世に伝え、これからの時代に於いても、郷土と国を護る崇高な精神を育み、恒久平和を希求する為、伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑をここに建立します。
平成二十五年八月十五日
特攻隊として国家の戦争に駆り出され亡くなられた若者を慰霊し冥福を祈るの当然だが、
「英霊」として「顕彰」する事は、やがて国家の戦争=「愛国」の戦争として「聖戦」につながる。
顕彰:著名でない個人の功績や善行などをたたえて広く世間に知らしめ表彰する
1945年3月26日石垣島白保飛行場から、
特攻隊として飛び立ち米艦隊に突撃した伊舎堂中佐をしのび慰霊祭。

3月27日の八重山毎日紙面

3月27日の八重山日報紙面
再掲:
インド洋~アジア太平洋地域で進む米軍の再編② 軍事強化される琉球弧の島々、米軍隷属下の自衛隊の再編・強化も進む。 2021/3/28 より
http://ryukyuheiwa.blog.fc2.com/blog-entry-1025.html
伊舎堂中佐らの陸軍特攻第1号として石垣島から出撃して、
76年目の3月26日、特攻隊「慰霊」ならぬ「顕彰」碑で自衛隊、防衛協会の皆さんが献花、拝礼。

2021年3月27日の八重山日報紙面
陸自配備をにらみ、石垣港・新石垣空港使用の常態化を狙う陸・海・空自衛隊。 5月14日には海自掃海艇「くろしま」と補給艦「ときわ」が石垣港に 2018/06/16 より
http://ryukyuheiwa.blog.fc2.com/blog-entry-604.html
3月30日、近海練習航海の海自艦艇3隻が石垣港に入港、特攻隊顕彰碑にそろってお参り。
https://youtu.be/4JncynHy1aE
埠頭から、新港地区から、途中新港地区の入り口にある特攻隊「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」に幹部候補生学校の卒業生がそろってお参りする姿が、そして海上から捉えました。海保の艦艇と合わせ石垣港がまさに「軍港」となっている姿をご覧ください。

参考資料:伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑
伊舎堂大尉は1945年3月26日誠第17代飛行隊の隊長として隊員3人と特攻機で白保飛行場を出発。同日午前5時50分慶良間郡西海上の米航空母艦に体当たり攻撃し戦死。白保飛行場からは計31人が突撃死している。
顕彰碑正面には:
大日本帝国陸軍 第八飛行師団誠第十七飛行隊
伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑
背面に記された碑文:
大東亜戦争終結六十八年を経たわが国は、戦後の荒廃を乗り越え、平和で豊かな生活を送ることが出来ています。現代のわが国の平和と繁栄は、国家存亡の危機に殉じた英霊と戦争の犠牲となった多くの方々の礎によってもたらされたことを心に留め、その史実を後世に伝えていかなければなりません。大東亜戦争末期、戦況の打開を図るべく、大日本帝国陸軍は特別攻撃隊を編成し石垣島にあった特別攻撃隊の基地からも、鎮護の任に当たるべく、若者達が身命を擲って出撃し、千尋の海に散華しました。
大日本帝国陸軍第八飛行士団誠第十七飛行隊隊長であった石垣島出身の伊舎堂用久大尉率いる伊舎堂隊四機と直掩機六機は、昭和二十年三月二十六日午前四時に、石垣島白保にあった基地より陸軍特別攻撃隊の先陣を切って出撃し、慶良間列島西方海上の敵空母軍に特攻を行い、その戦果は全国に大々的に報じられました。
郷土と国を愛し、悠久の大儀に生きる精神により散華した伊舎堂用久中佐(特別攻撃後、二階級特進)と隊員の遺功を後世に伝え、これからの時代に於いても、郷土と国を護る崇高な精神を育み、恒久平和を希求する為、伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑をここに建立します。
平成二十五年八月十五日
スポンサーサイト