5.15と6.23のイベント講演から 「自衛隊による宮古・八重山での制限戦争」「戦争とハンセン病」
- 2016/08/27
- 13:27
宮古島から:
5月14日、浦添社会福祉センターで行われた
日米安保64年「日本復帰」44年を問う「5 14脱植民地化沖縄集会」での
沖縄国際大学講師渡名喜守大さんの講演「自衛隊による宮古・八重山での制限戦争」
沖縄国際大学講師渡名喜守大氏講演1
https://www.youtube.com/watch?v=N9uG9uqQc2s
沖縄国際大学講師渡名喜守大氏講演2
https://www.youtube.com/watch?v=fsUBNqB2lQ8

5月10日の琉球新報紙面
参考映像:
同集会での石垣金星さんの石垣島への自衛隊配備についての報告。
https://youtu.be/SUTA242QqYA
同集会での清水早子さんの宮古島への自衛隊配備についての報告。
https://youtu.be/nnzMGhdYpIw
6月23日、日本キリスト教団宮古島教会で行われた慰霊の日イベントでの
南静園元患者現在ガイド上里栄さんの講話 「戦争とハンセン病」
上里栄さんの講話1
https://www.youtube.com/watch?v=dk9cnW2ijYs
上里栄さんの講話2
https://www.youtube.com/watch?v=CHIg3qcf4nc
上里栄さんの講話3
https://www.youtube.com/watch?v=EZZC7P_T24g
上里栄さんの講話4
https://www.youtube.com/watch?v=sU0ZjY3oHiQ
上里栄さんの講話5
https://www.youtube.com/watch?v=4zM9RLhpyFw
1945年、宮古南静園では数度の空襲戦災、マラリア、餓えで110名が死亡した
ハンセン病が差別されている時代、自分の家の墓に納骨されないことが普通であった。小舟での上陸時、わざわざ別の船着き場を使用していたことが記録されている。宮古島の離島、池間島のある浜は、昭和30年代に南静園に隔離されている島出身の患者の接岸地であった。マズムヌヒダガマ(悪霊浜)と言いウトルス(脅威)の地であった。周りは青々としてアダン、アザミ、ハマヒルガオが生い茂り言い知れない匂いも強烈であった。海での事故死の時も使われたこの船着き場が現在も残る。
宮古南静園の終戦変色して黄色くなった死亡者リストに、1945年(昭和20年)には110名の記載がある。直接爆撃死は1名であるが、負傷して死亡した数名がおり、また死亡原因としては、マラリアが多いが、腎臓疾患もあり、栄養不良の影響も大きい。「戦争を乗り越えて」、「沖縄県ハンセン病証言集」、「50周年記念誌」などに記録がある。園から見える断崖に機銃を備えるための穴が見える。1945年(昭和20年)3月の空襲で、徹底的に破壊され、園には住めなくなり、「ぬすどがま」その他に入園者は四散した。職員も園を去ったが、入所者が終戦を知ったのは1945年(昭和20年)9月であった。

8月17日 RBCニュース
宮古南静園で慰霊祭
ハンセン病の国立療養所宮古南静園で毎年旧盆の中日に行われる慰霊祭が今年もしめやかに行われました。宮古南静園の納骨堂で行われた慰霊祭には入所者や園の関係者らおよそ70人が参列しました。
南静園では沖縄戦当時海岸の洞窟での避難生活でマラリアなどによって150人あまりが命を落とすなど、これまで87年の苦難の歴史の中で536人が亡くなっています。
黙祷の後追悼の言葉を述べた新城日出郎園長は今も社会に残る差別と偏見を取り除いていきたいと誓いました。その後参列者たちは献花を行い亡くなった入所者や強制的に堕胎された水子の霊を慰めていました。
RBC THE NEWS「宮古南静園で慰霊祭」2016/08/17
https://youtu.be/Zco8iNlKmEY
2015年8月28日 宮古毎日
「悲しみ繰り返さない」/70年の節目、南静園慰霊祭
国立療養所宮古南静園(新城日出郎園長)は27日、同園の納骨堂で慰霊祭を実施した。新城園長をはじめ職員、入所者など関係者らが参列し、531柱のみ霊に深い哀悼の意を捧げた。戦後70年の節目を迎え、二度と戦争の悲しみを繰り返さないように訴え、恒久平和を願った。
これまでに同園で亡くなった入所者は531柱で、このうち342柱が園内、189柱が園外で祭られているという。
同日現在の入所者は70人、平均年齢85・2歳。式では、全参列者で黙とうをささげた。
新城園長は「沖縄戦末期、入所者は隔離の中で、住居を焼かれ、食糧を絶たれ、餓えに苦しみながら、行き場もなく、岩陰で雨露をしのぐという辛酸の限りを被りました。その中で力尽き、毎日のように命を落としていったと聞いている。その命を思うとき、二度とこのような惨禍を繰り返さないために、今なすべきことを深く考えないわけにはいきせん」と追悼の辞を述べた。
参列者一人一人が小菊を霊前に手向け、手を合わせた。
参考資料:ハンセン病政策と事件の歴史
中世にはこの病気は仏罰・神罰の現れと考えられており発症した者は非人であるという不文律があった。多くの患者が物乞をして定住することになったが、金銭が無い場合は集団から追放され死ぬまで乞食をしながら付近の霊場巡礼をしたりしていた。
1897年、ドイツで開かれた第1回国際らい会議で強制隔離政策が推奨された。ただし日本の隔離政策とは異なり警察による取締りではなく医師の判断に基づいた強制隔離であった。
1931年、国際連盟は「らい公衆衛生の原理」と題する著作を発刊し、ハンセン病の早期患者に対しては施設隔離を行わず、外来診療所で大風子油による治療を行うのが望ましいとされ、政策として初めて「治療対策」「脱施設隔離」が打ち出された。
日本では世界的な動向と逆行するかのように、1931年に強制隔離政策(感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる政策)が開始された。日本の法律は、放浪患者の救済・取り締まりの意味合いが強く、感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる政策(強制隔離政策)が主目的であった。
ハンセン病患者が犯罪を行った場合には刑務所に入らずに療養所に収容されるのみで刑を免れることが可能であったが、これは公民としての権利がなかったことと、刑法の適用がなかったことを意味する。
日本における優生政策の一環として行われ療養所の不文律となってきたものが、妊婦に対する強制的な人工妊娠中絶である。1940年(昭和15年)に国民優生法、1948年(昭和23年)に優生保護法が成立。後者において、ハンセン病は遺伝疾患でないにもかかわらず適用疾患と規定され、強制的な人工妊娠中絶が行われた。
国際的には、1956年(昭和31年)にローマ宣言が採択され、らい患者の救済と社会復帰の推進がうたわれたり、1958年(昭和33年)には東京で開かれた第7回国際ハンセン病学会で強制隔離政策をとる政策を全面的に破棄するよう批判されたが、国は全く聞き入れようとしなかった。一方、琉球政府は1961年(昭和36年)に「ハンセン氏病予防法」を公布し、外来医療・在宅医療を推進する政策がとられていた
1996年(平成8年)4月1日に施行された「らい予防法の廃止に関する法律」により、「らい予防法」は1907年(明治40年)に制定されてから89年後に廃止された。ハンセン病患者は、一般の病院や診療所において健康保険で診療できるようになった。
5月14日、浦添社会福祉センターで行われた
日米安保64年「日本復帰」44年を問う「5 14脱植民地化沖縄集会」での
沖縄国際大学講師渡名喜守大さんの講演「自衛隊による宮古・八重山での制限戦争」
沖縄国際大学講師渡名喜守大氏講演1
https://www.youtube.com/watch?v=N9uG9uqQc2s
沖縄国際大学講師渡名喜守大氏講演2
https://www.youtube.com/watch?v=fsUBNqB2lQ8

5月10日の琉球新報紙面
参考映像:
同集会での石垣金星さんの石垣島への自衛隊配備についての報告。
https://youtu.be/SUTA242QqYA
同集会での清水早子さんの宮古島への自衛隊配備についての報告。
https://youtu.be/nnzMGhdYpIw
6月23日、日本キリスト教団宮古島教会で行われた慰霊の日イベントでの
南静園元患者現在ガイド上里栄さんの講話 「戦争とハンセン病」
上里栄さんの講話1
https://www.youtube.com/watch?v=dk9cnW2ijYs
上里栄さんの講話2
https://www.youtube.com/watch?v=CHIg3qcf4nc
上里栄さんの講話3
https://www.youtube.com/watch?v=EZZC7P_T24g
上里栄さんの講話4
https://www.youtube.com/watch?v=sU0ZjY3oHiQ
上里栄さんの講話5
https://www.youtube.com/watch?v=4zM9RLhpyFw
1945年、宮古南静園では数度の空襲戦災、マラリア、餓えで110名が死亡した
ハンセン病が差別されている時代、自分の家の墓に納骨されないことが普通であった。小舟での上陸時、わざわざ別の船着き場を使用していたことが記録されている。宮古島の離島、池間島のある浜は、昭和30年代に南静園に隔離されている島出身の患者の接岸地であった。マズムヌヒダガマ(悪霊浜)と言いウトルス(脅威)の地であった。周りは青々としてアダン、アザミ、ハマヒルガオが生い茂り言い知れない匂いも強烈であった。海での事故死の時も使われたこの船着き場が現在も残る。
宮古南静園の終戦変色して黄色くなった死亡者リストに、1945年(昭和20年)には110名の記載がある。直接爆撃死は1名であるが、負傷して死亡した数名がおり、また死亡原因としては、マラリアが多いが、腎臓疾患もあり、栄養不良の影響も大きい。「戦争を乗り越えて」、「沖縄県ハンセン病証言集」、「50周年記念誌」などに記録がある。園から見える断崖に機銃を備えるための穴が見える。1945年(昭和20年)3月の空襲で、徹底的に破壊され、園には住めなくなり、「ぬすどがま」その他に入園者は四散した。職員も園を去ったが、入所者が終戦を知ったのは1945年(昭和20年)9月であった。

8月17日 RBCニュース
宮古南静園で慰霊祭
ハンセン病の国立療養所宮古南静園で毎年旧盆の中日に行われる慰霊祭が今年もしめやかに行われました。宮古南静園の納骨堂で行われた慰霊祭には入所者や園の関係者らおよそ70人が参列しました。
南静園では沖縄戦当時海岸の洞窟での避難生活でマラリアなどによって150人あまりが命を落とすなど、これまで87年の苦難の歴史の中で536人が亡くなっています。
黙祷の後追悼の言葉を述べた新城日出郎園長は今も社会に残る差別と偏見を取り除いていきたいと誓いました。その後参列者たちは献花を行い亡くなった入所者や強制的に堕胎された水子の霊を慰めていました。
RBC THE NEWS「宮古南静園で慰霊祭」2016/08/17
https://youtu.be/Zco8iNlKmEY
2015年8月28日 宮古毎日
「悲しみ繰り返さない」/70年の節目、南静園慰霊祭
国立療養所宮古南静園(新城日出郎園長)は27日、同園の納骨堂で慰霊祭を実施した。新城園長をはじめ職員、入所者など関係者らが参列し、531柱のみ霊に深い哀悼の意を捧げた。戦後70年の節目を迎え、二度と戦争の悲しみを繰り返さないように訴え、恒久平和を願った。
これまでに同園で亡くなった入所者は531柱で、このうち342柱が園内、189柱が園外で祭られているという。
同日現在の入所者は70人、平均年齢85・2歳。式では、全参列者で黙とうをささげた。
新城園長は「沖縄戦末期、入所者は隔離の中で、住居を焼かれ、食糧を絶たれ、餓えに苦しみながら、行き場もなく、岩陰で雨露をしのぐという辛酸の限りを被りました。その中で力尽き、毎日のように命を落としていったと聞いている。その命を思うとき、二度とこのような惨禍を繰り返さないために、今なすべきことを深く考えないわけにはいきせん」と追悼の辞を述べた。
参列者一人一人が小菊を霊前に手向け、手を合わせた。
参考資料:ハンセン病政策と事件の歴史
中世にはこの病気は仏罰・神罰の現れと考えられており発症した者は非人であるという不文律があった。多くの患者が物乞をして定住することになったが、金銭が無い場合は集団から追放され死ぬまで乞食をしながら付近の霊場巡礼をしたりしていた。
1897年、ドイツで開かれた第1回国際らい会議で強制隔離政策が推奨された。ただし日本の隔離政策とは異なり警察による取締りではなく医師の判断に基づいた強制隔離であった。
1931年、国際連盟は「らい公衆衛生の原理」と題する著作を発刊し、ハンセン病の早期患者に対しては施設隔離を行わず、外来診療所で大風子油による治療を行うのが望ましいとされ、政策として初めて「治療対策」「脱施設隔離」が打ち出された。
日本では世界的な動向と逆行するかのように、1931年に強制隔離政策(感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる政策)が開始された。日本の法律は、放浪患者の救済・取り締まりの意味合いが強く、感染の拡大を防ぐため全患者を療養所に強制的に入所させる政策(強制隔離政策)が主目的であった。
ハンセン病患者が犯罪を行った場合には刑務所に入らずに療養所に収容されるのみで刑を免れることが可能であったが、これは公民としての権利がなかったことと、刑法の適用がなかったことを意味する。
日本における優生政策の一環として行われ療養所の不文律となってきたものが、妊婦に対する強制的な人工妊娠中絶である。1940年(昭和15年)に国民優生法、1948年(昭和23年)に優生保護法が成立。後者において、ハンセン病は遺伝疾患でないにもかかわらず適用疾患と規定され、強制的な人工妊娠中絶が行われた。
国際的には、1956年(昭和31年)にローマ宣言が採択され、らい患者の救済と社会復帰の推進がうたわれたり、1958年(昭和33年)には東京で開かれた第7回国際ハンセン病学会で強制隔離政策をとる政策を全面的に破棄するよう批判されたが、国は全く聞き入れようとしなかった。一方、琉球政府は1961年(昭和36年)に「ハンセン氏病予防法」を公布し、外来医療・在宅医療を推進する政策がとられていた
1996年(平成8年)4月1日に施行された「らい予防法の廃止に関する法律」により、「らい予防法」は1907年(明治40年)に制定されてから89年後に廃止された。ハンセン病患者は、一般の病院や診療所において健康保険で診療できるようになった。
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