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宮古島の被支配の歴史を知り、住民の闘いの歴史を学ぶ資料、ぜひご覧下さい!

宮古島より:


関連記事:宮古島への自衛隊配備をめぐる映像記録と資料。ぜひご覧ください!
http://ryukyuheiwa.blog.fc2.com/blog-entry-80.html
「年表:宮古島における反軍反基地の闘い」更新してます。
年表:宮古島における反軍反基地の闘い001[1]



以下のホームページでファイル閲覧・ダウンロード出来ます。
https://teyata1948.wixsite.com/heiwa

008 宮古島・重層する被支配の歴史(改)
009 追体験・宮古島1945~1972
010 国策に翻弄される沖縄・宮古「下地島空港」

筆者の最近の講演の動画です

約37分の動画: 9月24日、 琉大祭で実行委員会本部企画の講演会「自衛隊配備に揺れる宮古島からの訴え」
https://youtu.be/Wd_QV5VrxWg
約1時間34分の動画: 9月15日、戦争させない!十勝講演会「宮古島で進む戦争準備に抗する!」
https://youtu.be/m1-T4YEyZpg




宮古諸島・重層する被支配の歴史         
虐げられし者たちの系譜  

2009年2月10日 清水早子(宮古在住)                                      

宮古諸島は沖縄本島と八重山諸島の中間、沖縄本島から南西に約300キロに位置し、琉球弧の中で八重山諸島同様、南島文化の影響の濃い諸島で、8つ(宮古島、大神島、池間島、来間島、伊良部島、下地島、多良間島、水納島)の島々からなる。  
宮古諸島にいつごろから人々が定住したのかは定かではないようだ。中国の秦(紀元前230~221年)の始皇帝が銅貨を使用する以前は宝貝が通貨として使用していたことや宝貝が宝物や装飾品とされていたことなどから、宝貝が多く採れた宮古島が古代貿易の根拠地であったとか、柳田国男が「海上の道」で宮古島を「日本民族発祥の地」という仮説を立てたその根拠が、“宝貝”だとも言われる。“宝貝のみぞ知る”学説よりも、私は古代、宮古に「母権制と母系制」があったようだ(『平良市史第一巻通史編Ⅰ』)という記述の方に関心が向く。

琉球弧の中で歴史学的には最も新しいとみなされている宮古で、言語学的にみると宮古方言の中に「万葉言葉」が多く残っていて、逆に古い要素を多く保持していることも興味深い。

薩摩支配下の琉球王府の施策としての「人頭税」

14世紀末、宮古は琉球王朝に統一され、1500年には八重山のオヤケ赤蜂らの乱の折、宮古の仲宗根豊見親が一族郎党を率いて首里王府軍3000の先導役をつとめ、その功績により宮古の支配者としての地位を確立した。1609年3月薩摩藩主島津氏は軍船100余隻、3000余の軍兵を投入、わずか1週間で琉球全土は手中にされたと言われている。領土内の叛乱には八重山まで遠征する戦闘性があったにもかかわらず、その100年後にたやすく制圧されているのは、侵略者としての薩摩藩の軍事力と戦闘意欲に比して、鉄砲も持たなかった琉球は格段の差があったのだろう。

薩摩の侵略によって、琉球王朝は独立国家としての実体を失い、1637年~59年に整備され宮古・八重山に課せられた過酷な人頭税は、王府がその体制維持のため、財政危機のしわ寄せとしてとった施策の一つとみなさている。従来の在地役人(地元村役人)による間接統治から、常駐在番役人を派遣しての直接統治へと1629年移行していった。  

人頭税は15歳以上50歳未満の男には粟(宮古では米ができないので)、女には上布を定額貢租として課した。その税負担は個人責任であるとともに村ごとの連帯責任ともされ、村は納税者の減少をおそれて相互の往来すらなくなり、村単位の閉鎖社会は人頭税が廃止される1902年まで270年ほど続いた。

在番役人は当初1人から1647年に3人に増員されたが、わずか3人の在番で王府の方針が徹底することは困難であり、私服を肥やす在地役人の不正、腐敗は横行した。在地役人は民衆の土地や税を私物化し、必要な手続きもせずに民衆を拷問し、在番役人には取り入ろうと村の女性を差し出した。王府は1678年、1767年、1865年、1873年と4回にわたり検使を派遣し、民衆の役人に対する不満・批判を聴取し、帰任後「規模帳」を作成し、行政、産業、祭祀、習俗など多岐にわたる改革内容が示された。しかし、それは、在地役人の綱紀粛正を通して王府の政策を百姓にまで徹底させ、いかに生産性を高め、貢租を確保するかいう点に眼目があったようだ。1800年冊封使を清から迎え、また冊封の答礼使を清へ送り出し、薩摩への使者の派遣などによる王府の財政のひっ迫は深まり、それは末端の民衆にしわ寄せられた。民衆は村からさえ逃亡し、山野に隠れたという。

近世末期には検見役というものも派遣しているが、それでも役人の腐敗は止まらず、頻繁に襲う台風と旱魃による飢饉、厳しい税の取り立てに民衆は疲弊、窮乏し、憤り、やがてさまざまな抵抗をこころみる。中でも「落書事件」は特筆すべきものである。1858年検見役として宮古へ来島していた武富親雲上良有の宿所に落書を投げこんだ者がいた。誰の行為かわからないままになっていたが、2年後1860年、那覇にある薩摩在番奉行所にあてた讒書(ざんしょ)を宮古に来ていた薩摩商人にひそかに托送するという事件が起こった。その書状は、琉球王府支配を批判し、「…悪政に困弊する島民を公道の下に救い給わば…」とその告発を薩摩藩へ直訴する内容で、琉球王府にとっては体制を揺るがす叛逆行為であり、大事件となった。犯人糾明は混迷したが、その2年後、主犯とされた者は3年間牢こめの上、斬罪、その妻子は10年間久米島流刑となって決着した。宮古の民衆は困窮のあまり、琉球王府の政策への告発を薩摩藩へ向けて訴え、救いを求めようとしたのだろうか。

「琉球処分」と宮古島  

日本の廃藩置県まもなく1871年秋、那覇へ上納物を運ぶ宮古船が帰途、暴風に遭い台湾南東部に漂着した。乗船者69人のうち3人は溺死、54人は上陸後現地人に殺害され(殺害の原因については諸説がある)、生存者12人は翌年6月福州をへて帰国した。これが「台湾遭害事件」である。この事件が鹿児島県参事大山綱吉から明治政府に報告され、これを口実に明治政府は1874年4月、西郷従道率いる台湾「征討」軍を送った。このことを背景に「琉球処分」は時期を速め断行されることになり、1879年他県に8年遅れ廃藩置県を迎えた。1871年の廃藩置県では琉球は鹿児島県の管轄下に置かれ、翌72年に琉球藩となったが、中国(清)との関係は従来どおり存続していた。台湾出兵は清国を初め、イギリス、スペイン、米国など諸外国の抗議の中で強行されたものである。抗議する清国との交渉過程で清国は、琉球は中国の属国であることにしばしば触れたが、日本側はうまく琉球問題を避け、議定書で殺害された宮古島民らのことを「日本属国民」と書くことに成功し、琉球が日本の藩属であることを公文書の中で清国は認めたものであると解釈した。こうした姑息な歴史の流れの中で、宮古船の遭難に端を発した台湾出兵は、琉球の日本への帰属を対外的に処理する布石となって「琉球処分」は本格化していく。  

「琉球処分」については2つの解釈がある。一つの解釈は『沖縄一千年史』や『宮古史伝』等にあるように「1879年3月11日付で廃藩置県を仰せつけられたこと」であり、もう一つは「明治政府の下に沖縄が日本国家の中に強行に組み入れられた一連の政治過程を言い、1872年の琉球藩設置に始まり、1879年の沖縄県設置を経て、翌年の分島問題の発生と終息にいたる前後9年間にまたがり、この時期を沖縄近代史上、琉球処分の時期として位置づけること」である。(金城正篤「琉球処分論」)宮古・八重山の分島問題も「琉球処分」の中の一環として取り扱う見方である。

琉球条約と宮古・八重山の分島問題    

日本政府が1872年9月琉球王国を廃して琉球藩を置き、1875年5月清国への朝貢及び使節派遣、琉球への冊封使差し止め、1879年4月4日についに廃藩置県という最後の断を下すまで、日本政府への琉球藩の陳情と嘆願、一方、日本政府の琉球藩への説諭と弾圧、日本対清国間の折衝、論駁、誹謗、抗議等三つどもえになって複雑な様相を呈し、琉球問題は未解決のままくすぶり続け、宮古・八重山の分島問題にまで発展していった。清国の抗議が続く1879年5月、日本に立ち寄った前米国大統領グラントに仲介を依頼した明治政府は、沖縄島以北の日本国の管理するものは除き、宮古・八重山は清国領とするいわゆる「分島」案を提出した。

「琉球処分」の経過の中でも、宮古・八重山は打ち棄てられようとしたのである。交渉すること2ケ月、両国全権の間に「琉球条約」が妥結した。しかし、調印には至らず交渉は打ち切りになり、1881年条約は流れた。当時、清国側にはトンキン問題でフランスとの確執があり、朝鮮での1882年壬午の変、1884年甲申の変など対朝鮮問題も抱えており、琉球問題はうやむやになっていった。  1894年日清戦争に至るまでの間、英修道著『外交史論集』によると、「日本の琉球統治が着々と実績を上げている一面、琉球の清国派が清国において復帰運動をしたり、朝貢使と称する琉球人を清国が待遇したり、琉球官吏が旧王国を夢見て抵抗した事件もあった」とある。そして、日清戦争での清の敗北の結果、琉球問題は日清外交から消えていった。

人頭税撤廃運動  

仲宗根将二氏著『宮古風土記』によると、1879年の廃藩置県の後も、明治政府は旧支配層への配慮から、「旧慣温存」策をとり、宮古・八重山では在地役人のそれまでの権限も、人頭税も存続されていた。「那覇出身城間正安、新潟県出身中村十作らの指導もあって、宮古農民の人頭税撤廃・島政改革運動は燎原の火の如く燃え広がった。」とある。1883年11月代表4人は命がけで海を渡って上京、政府、貴族院・衆議院に請願し、本土の各新聞は一行の訴えを「沖縄宮古島の惨状」と大きく報じた。その紙面に触れた人々は、このような過酷な悪政が延々と二百数十年、今なお沖縄の離島で続いていることに驚愕したという。1902年12月、人頭税は撤廃され、翌年1月から他県同様の地租条例が制定された。宮古農民の直接請願行動は、沖縄全県の制度改革、近代化を促す引き金となったという。「一方、人頭税廃止と同時に徴兵令も適用され、1904年勃発した日露戦争では多くの兵士が「満州」の山野で屍をさらした」のである。  

歴史の歯車が少し違った噛み合わせをしていれば、宮古・八重山は今頃、中国に属していたことを知る人はこの諸島にももう多くはない。この宮古諸島の先人たちは、琉球王府による支配、王府を通しての薩摩の支配、明治政府と中国清の覇権抗争の中で、なんと収奪され、翻弄され、生き抜いてきたことか。しかし、まだこの先、戦争の時代へとこの諸島の悲運は続いていく。

太平洋戦争時の日本軍による「全島要塞化」

宮古島における基地建設の歴史は大正時代までさかのぼり、1919年ごろから、有事の際、北海道 諸島・台湾に臨時要塞を建設することになり、1922年から沖縄本島中城湾、宮古島狩俣、西表島船浮に要塞建設計画が作られたことが、防衛庁防衛研究所戦史室「先島群島作戦(宮古編)」に見られる。しかし、中城湾、船浮要塞施設の建設に着手完成したのは1941年で、宮古島では遅れて1943年10月から飛行場建設などに陣地構築が始まった。山も川もない平坦な宮古島は「航空基地として最適」と判断され、3つの飛行場が建設されることになった。『沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』でいわれるように、沖縄戦の最大の特色は「航空特攻戦法」であった。(※宮古島の海岸には特攻用の舟を隠した穴も多数残っている。)1つの滑走路が爆撃されても、他の滑走路の利用により航空基地全体の機能を喪失しないことを主眼とする「第10号作戦」に取り組み、3つの飛行場と6本の滑走路をもつ航空基地建設による全島要塞化が始まった。  

米軍上陸を想定した第32軍は満州に駐屯していた第28師団を先島守備強行のために第32軍に編入させ、宮古島に移動させた。第28師団は日清・日露の戦歴を持つ日本陸軍の精鋭師団の一つとして数えられた部隊であった。そのほとんどは満州から釜山、鹿児島経由で宮古島に送り込まれた。  

1944年宮古島に駐屯した日本軍は最終的には、陸軍のみで2万8000人、海軍を合わせると3万を超える強大なものであった。人口6万人の島では、約1万人が疎開して島を離れ、老人、女性、子どもが多い中、成人男性は島民より軍人の数の方が上回り、街にはカーキ色が溢れていたという。飛行場建設には、「島民を各地区隊に収容して参加させる」(野口退蔵『宮古島建築兵始末記』)状況が強いられ、青壮年はもとより小学生まで動員、作業にかり出され、学校などの島内の主要建設物もほとんど軍に接収された。  

宮古島では直接の地上戦はなかったが、連日の米軍による空襲、イギリス東洋艦隊による艦砲射撃で、平良の街はもとより島中ほとんどが焼土と化した。海空の輸送路を断たれ、孤立した島内で島民も軍人も飢餓と栄養失調、マラリア等の伝染病に苦しんだ。戦死者の数は爆撃によるものより飢えと伝染病によるものが上回るという。ジュウジュウ空襲と呼ばれる1944年10月10日の空襲では軍関係者だけで1500余人、民間人200人以上とされるが、1947年の統計によるとマラリア罹患者は3万人以上、死者428人、飢えによるものを加えると、終戦以降も増え続け正確な死者数は今なお、不明という。

宮古島にあった16ヶ所の「慰安所」と朝鮮人「慰安婦」  

日本兵とともに宮古島には、朝鮮人軍夫と「慰安婦」が連行された。引き上げた時点での朝鮮人軍夫の数は600余と記録があるが、飛行場建設、港湾の荷役労働や井戸掘りの重労働を強制され、爆撃では港湾、空港基地などがターゲットになったため、彼らは真っ先に被害に遭った。空襲の最中まで労働を強いられ、荷役労働中に港湾で爆撃に遭った朝鮮人軍夫の死体が海に累々と浮かんでいたという。相当数の朝鮮人軍夫がいたはずである。

若い朝鮮人女性がほとんどであった「慰安婦」は島内少なくとも16ケ所の「慰安所」に収容されたことが、地元研究者やその後の調査で判明している。宮古島島民に目撃されている「慰安所」のほとんどは、飛行場建設が本格化した1944年ごろに作られている。1944年、宮古島の陸軍病院にはマラリア患者があふれ、患者を運ぶ担架や医薬品が不足していた。歯科医であった池村恒正氏は軍医として現地召集される代わりに、台湾の台北帝国大学医学部まで物資を取って来るよう指示され、台湾に渡るが物資を得ることはかなわず、軍人二人に付き添われた「朝鮮人の慰安婦53名」とともに帰途についた。船は翌朝、与那国港外で米軍の攻撃を受け、「慰安婦」たちはアイゴー、アイゴーと叫びながら溺れ死んでいくのを目の当たりにした。九死に一生を得た池村氏は、53名のうち生き残った7名の朝鮮人「慰安婦」を連れて宮古に戻った。彼はこう証言する。「生き残った朝鮮の女性は7名だけだった。この人たちは好き好んで『イアンピー』になったわけではない。日本の強権で連れて来られた人たちだった。」「着のみ着のまま7名の「慰安婦」を野原越(司令部があった)の師団管理部に連れて行った」「兵隊の性欲とはそんなに強いものだろうか。連日列をなして順番を待っていた。担架と薬品を取りに行って、それは果たさず、朝鮮の女性7名を連れて帰ったわけです・・・」と。(『沖縄県史』第10巻)    

沖縄本島では「慰安所」は、特に植民地女性を収容した「慰安所」は「皇土の一部」である沖縄に持ち込むことに対する批判を避けるため、集落のはずれなど住民の目に届かない場所に建てられているが、宮古島では平坦な地形であり、飛行場建設に総動員された島民の目から隠れたところに「慰安所」を置くことはできなかった。それらは、陣地近くの原野や道端、集落近くや街中の人目につく場所に建てられたバラック小屋や赤瓦家であった。多くの島民が現認しているばかりではなく、「慰安所」建築の手伝いや「慰安所」までの道案内をさせられたり、そのうえ、住居である家を「慰安所」として接収されたものもある。  

さらに川もない島では生活用水は井戸水であり、軍も島民も「慰安婦」も水場という生活空間を共有せざるをえなかったため、陣地や「慰安所」の位置は井戸と密接な関係にあった。日本軍も「慰安所」から島民の目をそらそうとした痕跡はなく、「慰安婦」たちも水場での水浴びや洗濯する姿を目撃されたり、井戸を共有する一部島民との親密な交流も見られた。島民の居住空間近くにいた「慰安婦」に対して、宮古島島民の眼差しには差別的な偏見が相対的に少なかったようだ。とはいえ、強制連行されるか騙されるかして朝鮮半島や台湾から宮古島にやって来た若い彼女たちは、移動の自由も人権も奪われ、「慰安所」の前で居並ぶ「ふんどしだけを身に着け、手に印の押された白い紙を持った兵隊」たちの性のはけ口とされ、奴隷状態に置かれていたことに違いはない。  

1945年の終戦時、8月26日米国海兵隊2000人が上陸用舟艇(LST)で入港、10月6日までかかって日本軍の組織的な武装解除が行われた。沖縄本島とは異なり、軍民ともに捕虜として収容所に送られることはなく、3万人もの日本軍は復員が終了する1946年2月まで孤立した島に島民とともに共存した。「宮古島では補給路を失った兵隊と郡民が襤褸をまとい、わずかばかりの食糧を求めてさまよっていた」(『平良市史第一巻通史編Ⅱ』)のだ。 敗戦と同時にこれら宮古島の軍隊がいち早く執り行なったのは、書かれた戦争記録の抹消であった。「宮古島に於ける作戦資料はすべて終戦に方(あた)って焼却したので何も残っていない」(防衛研究所戦史室「山砲兵隊二十八連隊」『宮古島戦史資料』)。

「平良町に上陸して来た焼けただれた軍旗は、侵略戦争の終末を暗示し、象徴するものとなった。同年(1945年)8月31日、野原岳司令部に保管し、男子教員の輪番制による『護衛』された天皇家三代の『御真影』とともに連隊旗は『軍旗奉焼』と称して焼却された。」(『平良市史第一巻通史編Ⅱ』) 終戦後、朝鮮人軍夫は、港で解放の行進をしたという。「慰安婦」とされた彼女たちはどこへ行ったのか記録はなく、検証もない。島民の記憶の中にのみ、彼女たちは生きている。  

そして、日本の敗戦から63年の後、島民たちの薄れてゆく「記憶の場」にいた彼女たちは、「祈念碑」としてその存在を再び明らかにする。

航空自衛隊宮古島駐屯基地の麓に日本軍「慰安婦」の祈念碑建立  

2005年市町村合併で旧平良市は宮古島市となる。2007年3月、宮古島市議会で、「宮古島における「慰安婦」問題の実態を記録するため「慰安所」跡の地図作成などに取り組むこと」に対する市長の見解を求めた議員に対し、一部保守系議員から「従軍『慰安婦』問題は地方議会にはそぐわない」として反発。それに対して市長は「戦時中、『慰安所』が自宅から100メートルも離れない所にあった」と発言、「『旧平良市史』にも記述がある」と応じた。この発言に対して保守系議員たちは発言の撤回と謝罪を求めて退席し議会は空転、結局、提案した議員と市長は発言を取り消し、議会でのやりとり、「慰安婦」の質疑は議事録から削除されるという事態が起こった。  

このような事態に憤りと懸念を感じた女性たちが、「宮古島の日本軍『慰安婦』問題を考える女たちの会」を結成、4月、宮古の「慰安婦」調査をしていた洪沇伸(ホンユンシン)さん(韓国からの早稲田大学大学院留学生・「沖縄・韓国における軍事暴力」研究者)を招き、「宮古島の日本軍『慰安婦』について証言を聞く会」を開催した。出席した戦時中の記憶を持ち続けた宮古島の高齢の証言者の口から、こうして「慰安婦」たちが再生した。5月には、韓国から尹貞玉さん(元韓国挺身隊問題対策協議会代表・元梨花女子大学教授―伊さんは戦時中「挺身隊」として日本へ駆り出され戦後も帰らぬ同級生たちの足跡を辿ることをライフワークにしており、アジア太平洋諸国の日本軍が「慰安所」を置いた全ての場所へ出かけ証言を集めている)、中原道子さん(早稲田大学アジア近現代史名誉教授・)、東海林得子さん(VAWW-NET(戦争と女性への暴力)ジャパン)他の日韓合同調査団が来島、当時を知る島民から聞き取り調査を行った。(※尹さん、中原さん、東海林さんたちは、日本軍の「慰安婦」制度を裁いた2000年の女性国際戦犯法廷の国際実行委員たちである。)  

宮古島市議会の保守系議員たちは、皮肉にも宮古島の「慰安婦」問題に大きく火をつけてくれたことになる。この調査活動の中で、当時を知る証言者の一人から「『慰安婦』の女性たちを悼む碑を建てたい」との声があり、「宮古島の『慰安婦』問題を考える女たちの会」が祈念碑建立へと動いていく。東京からまず、募金運動が始まり、韓国、宮古島と「宮古島に日本軍『慰安婦』の祈念碑を建てる会」が結成され、海外や全国から600余の個人・団体の賛同と募金が寄せられた。  

韓国内では、もう20年近く、毎水曜日に、いまだに公式な謝罪や賠償をしない日本政府に抗議してソウルの日本大使館前で座り込みを続ける元「慰安婦」たちを支えてきた挺身隊問題対策協議会 が中心となって祈念碑建立の運動を担った。毎年、元「慰安婦」女性たちは高齢となり次々と亡くなっていく状況なので、存命する彼女たちに一刻も早く碑の完成を伝えたいと、短期間のうちに東京・宮古の限られた人数のメンバーたちも懸命に働いた。そして、2008年9月7日、碑は完成し除幕式が執り行なわれた。  

戦時中は日本軍司令部が、戦後は米軍基地が、本土復帰後は航空自衛隊通信基地が置かれている宮古島の中央、宮古で最標高110メートルの野原岳のふもとに建った碑は、「女たちへ」と「アリランの碑」と題字を彫られ、次の碑文を刻まれた。

「アジア太平洋戦争期、日本軍はアジア太平洋全域に『慰安所』を作りました。沖縄には130ヶ所、宮古島には少なくとも17ヶ所あり、日本や植民地・占領地から連行された少女・女性が性奴隷として生活することを強いられました。2006年から2007年にかけて『慰安婦』を記憶していた島人と韓国・日本の研究者との出会いから碑を建立する運動が始まり、世界各地からの賛同が寄せられました。日本軍によって被害を受けた女性の故郷の11の言語と、今も続く女性への戦時性暴力の象徴として、ベトナム戦争時に韓国軍による被害を受けたベトナム女性たちのためにベトナム語を加え、12の言語で追悼の碑文を刻みます。故郷を遠く離れて無念の死をとげた女性たちを悼み、戦後も苦難の人生を生きる女性たちと連帯し、彼女たちの記憶を心に刻み、次の世代に託します。この想いが豊かな川となり、平和が春の陽のように暖かく満ちることを希求します。この碑をすべての女たちへ、そして平和を愛する人々に捧げます。」と。そして、両側の碑には「日本軍による性暴力被害を受けた一人ひとりの女性の苦しみを記憶し、全世界の戦時性暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈ります」との碑文が12ヶ国語(中国・台湾、グアム、インドネシア・マレーシア、韓国、ミャンマー、オランダ、タイ、フィリピン、東チモール、オーストラリア、日本、ベトナム)で刻まれている。  

除幕式直前、宮古島にいた「慰安婦」の唯一の生存者として韓国の病院にいることが調査で判明した朴ゼナムさんが亡くなった。碑の完成を心待ちにしていたという。韓国から除幕式に来島した元「慰安婦」85歳の朴順姫(パクスンヒ)さんは、自分の過去の証言を初めて、宮古島の高校生たちも含め、150余名もの老若男女の聴衆の前で語った。平安南道元山で生まれ、16歳のときに日本の憲兵に連行され、満州の日本軍「慰安所」での6年間の恥辱と苦渋の生活を告白することは耐えがたく、証言の途中、彼女は貧血を起こし中座しなければならなくなった。会場の150余名は心をえぐられる告白に、屈強な男も、冷静なはずの司会者もみんなが涙した。

除幕式当日は、建設中の自衛隊基地内の巨大な「地上電波傍受施設」を向こうに見上げながら、高校生たちの吹奏楽で「アリランの唄」の演奏とともに、100名を超える島内外の参加者で賑やかに楽しい除幕式が行われた。  

薩摩藩の侵攻以来400年の歴史を、この沖縄の離島である小さな島々で連綿と生きてきた虐げられし者たちの末裔が、今、一つの国際連帯のシンボルを形にしたのである。   

「下地島空港」軍事利用の動向と今後の懸念  

しかし、この諸島は、「沖縄も、日本も、東アジアも、世界もよく見える」地理的条件にあり、3000メートルの滑走路を持つ空港を抱えたために、これからも軍事的な被支配の危機と向き合いながら暮らしていかねばならない運命にある。

戦後、「米軍の全面占領下、1960年、沖縄県祖国復帰協議会宮古支部が発足し、宮古群島政府を巻き込む島ぐるみの復帰運動が展開された。翌61年には宮古地区原水協、62年にはキビ代値下げ反対闘争の中で全沖農宮古地区協議会、労農共闘会議も結成され、労農共闘の糖業合理化反対闘争は、米軍支配を根底からゆさぶるものであった。65年7月米軍機で送り込まれた武装警官隊は白昼、カービン銃を発砲し、騒乱罪を適用し農民を弾圧した。10年近い裁判闘争は被告8人全員を二審で無罪とした。1972年5月15日、沖縄の『施政権』は返還されたが、それは「核も基地もない」平和な沖縄ではなかった。『施政権』返還を前に、東急、ダイエーなど本土資本による土地買占めが始まった。下地島には、政府の強制で島ごと買い上げられ、国内唯一のジェットパイロット訓練飛行場が建設された。」(仲宗根将二氏著『宮古風土記』)

宮古本島の離島の中で最大の離島伊良部島(人口6500人)に隣接する下地島に空港建設計画が持ち上がったのは1968年。島を2分する推進派と反対派の抗争は殺人事件に発展するほどであった。推進派に雇われたヤクザが、反対運動を担う沖縄県教職員組合の教員の授業中に教室へ殴りこんだという。反対派の人々はまだ本土復帰前の当時から空港の軍事利用を懸念していた。地元の大きな反対運動を背景に、当時の琉球政府の屋良朝苗主席は日本政府との間で「下地島空港は琉球政府が所有し、管理するもので軍事目的には使用しない」という確認書を交わし、民間航空以外は利用できない「非共用飛行場」として建設にこぎつけた。しかし国は、「それなら管制業務や気象業務の費用は出せない」と脅しをかけ、1979年、3000メートルの滑走路を持つ「公共用飛行場」として開港を余儀なくされ、「軍事利用の懸念」という暗い宿命を背負って下地島空港は誕生した。

2002年自衛隊機訓練誘致や2005年自衛隊駐屯誘致の推進派の動向はその都度、反対する島民の結束ではね返すことができた。「給油」名目の米軍軍用ヘリの下地島空港への強行着陸ももう2年以上なく、表面的には平穏な時間が流れているように見えるのだが、今、危機は深く潜行しているようである。

前述の革新系市長が市職員の不祥事で任期満了を待たず引責辞任した後、2009年1月25日の市長選挙で、自公推薦保守系候補の市長が15年ぶりに返り咲いた。自衛官募集を市の広報に掲載すると言っている。2012年、宮古本島から伊良部島への架橋が完成する予定だ。今年、国から国営灌漑排水事業という名目で、巨額の523億円という予算が投じられた。既設の地下ダムで現在特に水不足ではないにもかかわらず、さらに地下ダム2基を建設し、完成すれば伊良部大橋を通して伊良部島へ送水するプロジェクトだという。この大量の水は果たして何に使われるのか。港湾では大型クルーズ船の入港に対応するため耐震バースを整備して、港湾の水深も14メートルにするという話も出ているが、現在の水深8メートルでも大型クルーズは入港できているのだ。港の沖合いに出現している波止めは、艦船でも停泊できそうなほど長い。

こう書いている最中に、我が家の上空を低空で自衛隊の軍用機が旋回した。あまりないことなので空自宮古駐屯基地(通信基地で戦闘部隊の常駐は現状ない)に問い合わせると、「神奈川県入間基地所属の戦術輸送機で、給油のため宮古空港に着陸する」のだと言う。目的は「慣熟のため」だとのこと。軍用機を目にする気持ち悪さに慣れてもらおうということなのか。

危機を示唆する怪しい状況はいくつもあるのだが、市長選挙めぐって分裂した革新系政治勢力と労働組合。15年間続いた革新市政から代わった保守系新市長は、経済危機を背景に「国・県とのパイプ」を強調し、国の2兆円の定額給付金の無益なバラまきを恩恵のように謳う。

島の軍事基地化の危機が次に浮上するとき、私たちはどのように対処し、虐げられし者の連帯を作り出すことができるのだろうか。

参考文献
・平良市(現宮古島市)史第一巻通史編Ⅰ、Ⅱ
・仲宗根将二氏(宮古島市在住郷土史研究家)著『宮古風土記』
・洪沇伸氏(「朝鮮人と沖縄戦」「ジェンダー」研究者)著
『「慰安婦を見た人々」』季刊戦争責任研究62号



追体験・宮古島1945~1972
宮古における復帰運動と今につづく軍事化に抗する道
 
2012年3月 清水早子(宮古在住)

私は1995年3月に宮古へ移り住んだ。その半年後、沖縄本島で海兵隊員と海軍兵による「少女集団強姦事件」があり、沖縄本島での県民大会に呼応して開催された、アメリカに抗議する「宮古郡民大会」に一人で、見知る人もまだ少ない中、集会の後ろの方で参加した記憶がある。
 
その年は復帰23年目であった。沖縄県民は「日本国憲法9条があり、基地のない沖縄」を幻想し、希求して、復帰を迎えたものの、その後23年間の失望はその年、この事件を持って決定的に絶望へと変わり、本島では9万人が日米両政府に沖縄の怒りの声を結集した。

それから17年、私の宮古での暮らしは、1968年以来もう44年間ことあるごとに浮上する下地島空港の軍事利用に抗う運動と共にあるが、今回依頼を受けて宮古での復帰運動の歴史の一端を振り返る作業に向き合うことになって、復帰運動をこの地で経験していない私にとっては荷が重いが、宮古の先人たちの闘いの記録を追体験することは感動的なことであった。

敗戦直後の宮古島

「沖縄県祖国復帰協議会宮古連合支部」は、沖縄本島での復帰協の結成に呼応して、1960年4月28日に結成されたが、そこに至る道筋を中核となって担ってきたのは、宮古の教職労働者たちであった。

太平洋戦争当時、宮古島では米軍に上陸による戦闘は回避されたものの、1945年「四月、五月頃の烈しかった空襲のため、植えつけないままにいた畑からは九月、十月の収穫がなく、島は珍しい飢饉に襲われていた。私達は、つる草から水草、ぺんぺん草、それからかたつむり、蛇、犬しまいには、猫もねずみも食べた。」(「南島研究」2号所収・池田弥三郎氏「宮古島雑記」)とある。また、「さきの太平洋戦争中、宮古島圏域にはおよそ三万の陸海軍将兵が展開していた。そのほとんどは『満州』駐屯の関東軍。出身地は沖縄県を含む全国四七都道府県はもとより、当時日本の植民地にされていた朝鮮、台湾、樺太にまで及んでいる。一九四三年九月軍用飛行場の建設が始まり、翌四四年ごろ迄には三つの飛行場を中心に、宮古全域を要塞(軍事基地)化しての布陣である。当時宮古の人口はおよそ六万五○○○人、このうち一万三○○○人が兵役、徴用、疎開、その他で郡(県)外へ出ていった。残ったのは五万二○○○人、そこへ三万の軍隊の展開である。軍服姿ばかりが目立ったであろう。(1944年)一○月一○日の初空襲に始まって、翌四五年三月~六月の『沖縄戦』では連日、それ以降七~八月も米英軍の猛爆である。野良仕事はできず、ほとんど防空壕暮らし。海空の輸送路を断たれて、武器・弾薬はおろか、食料や医薬品の補給もない。極端な食料不足による栄養失調とマラリア、デング熱等の疫病の蔓延で多くの命が失われた。」(「戦場の宮古島と『慰安所』所収・仲宗根将二氏(宮古郷土史研究家)「第二次世界大戦と宮古島」

立ち上がる教員たち

宮古島では1500人と言われる兵士の戦死・戦病死者の何倍もの人命が、飢餓と疫病でなくなったという。1945年8月26日、アメリカ陸軍の進駐によって、2万7000人の旧日本陸海軍兵は武装解除を始めた。12月8日には米海軍が軍政を敷き、直接行政に介入した。そのような「虚脱と荒廃の中から立ち上がった教師たちは、子どもたちを集めて手さぐりの教育を始めた。旧軍の兵舎を解体して古材を運び、カヤを刈りとって掘っ立て小屋の屋根をふいた。あるいは米軍払い下げの野戦用テントを焼け跡にはって急ごしらえの教室とした。子どもたちはめいめい家から雑品箱を持って来て、冷たい吹きさらしの土間に並べ即席の机や腰掛けがわりに用いた。教科書は戦災をまぬがれたものにスミをぬり、・・・チョークや鉛筆、ノート類は米軍に頼んで配給してもらった。いかによけい米軍から教具に使えそうなものの配給をかちとるかが、支庁学務課はもとより、教師にとっても重要な仕事の一つであった。」(宮古教職員会20年史1973年2月発行より)とあるように、いち早く活動を始めた教員たちは敗戦から半年後の1946年2月には、地元新聞に寄稿し、教員がいかに生活苦にあえぎつつ、子どもたちの教育にあたっているかを、訴えている。

1946年9月には、「宮古教員組合」が結成され、「民主化はまず教育者から・・・」をスローガンに、「争議権も敢行し得る強固なる組合」を規約にうたい、教員組合の承認なしには教学課といえども人事異動は勝手にさせないことを運動方針におりこんで要求するまでに成長していた。」(前掲書)スミぬりの戦前の教科書を使わざるをえないような教育現場に身をおく一方で、、敗戦一年で、スト権を謳い上げるまでに変容する力を育てていく宮古の教員たちの希望に燃える姿が目に浮かぶようだ。
 
組合結成後、創刊された月刊機関紙「宮古教育」には次のようにある。「創刊の辞・軍国主義の強制と封建的イデオロギーのしっこくから解放されたわれわれは真実なる『われ』の覚醒を得た。取り戻されたわれわれの人間性は敗戦の惨苦と混迷と不安と焦燥とのほうこうの中から自己の前に展開される世界の光輝と生気とをひしひしと感じつつ、…」と歓喜に溢れている。
 
しかし、組合は米軍の受け入れるところとならず、その10ヵ月後には解散させられた。再び労働組合として再生するのは7年後の1954年であるが、それまでの間も、米軍の圧政下で「教職員会」として、機能を果たしていた。

エピソード
 
宮古の教員たちの、柔軟なクリエイティブとも感じられる話を2点あげたい。

本土では、1947年に「教育基本法」が制定され、新憲法にのっとって「人格の完成をめざし、平和な国家社会の形成者として、真理・正義をとうとび、個人の価値・勤労・責任を重んじ、自主的精神に満ちた国民をつくるとの教育理念の根本を確立」と掲げられ、6・3制が発足したが、本土との往来が禁じられていた宮古では、「風の便りに聞くだけで、直接行政ルートを通しては伝わってこなかった。」が、唯一、本土と行政分離された後も交流のあった政府機関が「宮古島測候所」で、本土から年4回程度、補給船が通い、職員の給料や食料を届けていたことに目をつけて、宮古から本土の大学に行っていた者を通して、本土における新しい教育事情とともに、諸法規類を補給船に託送させたのだった。「船長は非常に好意的で、米軍の監視の目をくぐってさまざまな困難をおかし航海のつど、この危険でかつ重要な任務を果たしてくれた」(前掲書)とある。この方法は隣郡の八重山でも活用されたという。そして、そうやって手に入れた諸法規や資料に基づいて、宮古では、独自に「教育基本法」、「学校教育法」が、1948年4月1日、日米国軍政府の認可を経て公布された。この宮古教育基本法は、1952年、「琉球教育法」が公布されるまでの間、宮古の教育の基となった。この話を私は、すでに宮古の年輩者から、何度か誇らしげに語られるのを聞いたことがある。

もう一つは、「教員の団結をはかるには会員の物的つながりをもつことが近道である」という観点に立って、1951年4月、宮古文教図書株式会社が設立されたことである。教員やPTAら、およそ500人の株主で構成され、教科書を初め、教育現場で必要とする教材・教具・書籍類を一括購入、教育現場の便宜をはかったという。「教育会員はだれもが、われわれの会社だと、文教図書を利用し、盛り育てた」とある。この相互扶助的な経済的自立の発想はユニークである。教育そのものを、教育労働者と地域全体で育てようという、まだ資本の論理にからめとられていない資本主義の原初的な段階のほほえましささえ感じられる。

1952年以前の宮古での政治状況

講和条約が発効する1952年以前の、やがて復帰運動へと向かう宮古での政治状況を見てみると外からやってきた私には、興味深い。

戦時中の議員たちの疎開先からの帰郷で、「宮古の政界は、新時代への転機に対応すべく、活発な動きを見せ、1947年5月2日、市町村長、市町村議会議員の選挙法を制定せよと軍命令が出されてから、公選の機運は盛り上がり、政党もつぎつぎ結成されていった。」(平良市史第2巻)

沖縄本島では、沖縄民主同盟、瀬長亀次郎を中心とする沖縄人民党、沖縄社会党が誕生したが、宮古では、1946年5月「宮古民主党」が、結党し、綱領には①民主主義の体制確立②資本主義の社会化③人権の徹底的保証④労働条件の根本的改革などなど、9月には、「宮古青年党」が結成、宮古民政府人事に反発するインテリ青年層が結党し、党首は次のように語った。「人民のための政治の根本は自由平等の思想である。真のデモクラシーは、民主主義思想を把握理解し、その信念を以って、指導者が実際の政治に当り、完全なる人民の人民による人民のための政治をつくることによって実現する。」と。1947年10月には、「宮古社会党」が結成、その綱領が独特である。「一 我党は琉球民族の幸福は米国帰属にありと確信し将来沖縄州の実現を期す。一 我党は封建官僚政治の旧弊を打破し、民主主義体制の確立を期す。一 我党は資本主義の長所を併用し社会主義政策を断行し、島民生活の安定向上を期す。一 祖先崇拝道義尊重の美風を昂揚し欧米文化を移入して、新沖縄文化の建設を期す。」とあったが、1949年には解散している。革新的政党の反民政府勢力に対抗して、1949年9月には、「宮古自由党」が当時の軍政官や知事を来賓に迎えて、結成大会をおこない、その綱領は、「我党は共産思想を排撃し、自由主義思想の涵養を期す」などなど、政策では米軍政への協力などをあげていた。

1950年には、民主、社会、人民共和の三党は解散したり、変遷を経て、1950年末に、「宮古革新党」が1600名の党員を集めて結成された。

講和条約の裏切り

1950年、朝鮮戦争が始まり、「国連軍の名の下に米軍は総力を挙げて『韓国』を助け、北朝鮮(朝鮮人民民主主義共和国)に攻め込んだ。嘉手納基地からは米軍機が発進、朝鮮爆撃を始めてから三ヵ月後、沖縄・奄美・宮古・八重山の四群島ごとに初の公選群島知事選挙がおこなわれた。このころ米国では大統領顧問ダレスを中心に対日講和条約締結への具体的な動きが活発になってきた。」「1951年…(沖縄群島の)四つの政党は対日講和との関連で、沖縄の帰属問題について会談をかさねた人民党と社会大衆党は即時日本復帰を、社会党はアメリカの信託統治を、民主同盟を吸収して結成された共和党は独立を主張した.。・・・・・・日本復帰を促進するための懇談会・署名運動が組織された。有権者二十七万六千人のうち、七二・一%にあたる十九万九千人の署名がわずか三ヶ月の間に集められ、群島知事と群島議会は八月二十八日ダレス特使、日本国全権吉田茂首相、講和会議議長らに宛てて日本復帰の要請電報をうった。奄美では奄美大島復帰協議会を中心に全郡的な規模で二十四時間断食悲願がとりくまれ、復帰要求署名は十四才以上の郡民の九九・八%にあたる十三万九三四八人にのぼった。」 

1951年4月29日に宮古では、沖縄本島より先に、「宮古祖国復帰期成会」や「宮古復帰青年同志会」が結成されている。ポスターを張り、街頭宣伝に乗り出し復帰要求の署名運動を展開した。「沖縄群島で七二・一%集めた署名は本郡(宮古)では『わずか五日間で有権者(満二十才以上の八八・五%、三万三千余の署名を得)(瀬長亀次郎「沖縄からの報告」)て講和条約に臨む直前のダレス特使と吉田首相におくられた。』(宮古教職員会20年史)

講和条約締結前夜の沖縄群島、「祖国」復帰を求め、議論に沸く宮古郡の人々の息づかいが聞こえるようである。しかし、「熾烈な願望にもかかわらず」、1951年9月8日の講和条約と日米安保の調印によって沖縄は本土から分離され、沖縄の全面占領体制が固められた。宮古朝日新聞は「鬼畜吉田を糾弾す」と題する社説をかかげて「吉田首相の非道をなじり、責任を追及した。」「・・・民族の幸福は(自主性)なくしては絶対にあり得ない。信託統治の形式は如何ようであれ、実質に於いては「自主」は認められない。我々琉球人は世界の何れの国民に伍して自治能力者として決して劣るものではないと確信するものである。・・・」と、激しく非難している。

「日の丸」掲揚運動

1952年4月、琉球政府が発足し、講和条約が発効すると「集成刑法」が改正され、「日の丸」の掲揚が許されるようになった。「この機に沖縄教職員会は『私たちの祖国は日本である』ことを児童生徒に認識させるため、各戸に『日の丸』をかかげさせる運動を展開した。」(平良市史)

「戦後はずっと布令によって『君が代』の斉唱と同じく『日の丸』の掲揚は禁じられていた。『日本国民としての教育』を行う立場から、異民族支配支配下にありながら日本国旗の自由掲揚のため組織をあげて取りくんだのである。」「このような世論の強い支持をうけながら、『日の丸』掲揚運動は展開されたのであったが、当時の権力迎合主義者たちはこれに反発し、本土の同胞たちも軍国主義のシンボルとして掲揚を喜ばない状況であった。それが今では全く相反する立場で「日の丸」を見、権力迎合主義者たちのシンボルになり変わったことを想えば、時の流れとはいえ、変われば変わるものである。」と、宮古教職員会20年史を発行した1973年に編者が、かつての状況を振り返って述べている。「沖縄における『日の丸』は米軍支配への抵抗のシンボルであった」ことは、当時の沖縄の民衆の、圧政からの解放を「祖国」に託そうとした悲しいまでの願望を意味している。アメリカ軍政下から解放を求めて、「新憲法」の下、「基地のない沖縄」への強い希求が、ときには「我々琉球人は」と言わしめ、ときには「日本国民として」と言わしめていることに心の痛む思いがする。

復帰運動へ強まる弾圧
 
1953年、日本本土では、朝鮮戦争とあいまって、「愛国心」が強調され、逆行する復古主義の文教政策がとられ、「教育公務員特例法」が改悪され、「義務教育諸学校における政治的中立を確保する立法」が制定され、教職員の政治活動は禁止されることとなった。「これらの法律を盾に、平和と民主主義の教育を偏向教育だときめつけて教員の処断にかかり、1958年には指導要領を改悪して教育内容を権力に都合のよいものに切り換え、戦争を美化してしだいに軍国主義的な教育への布石を確かなものにしていった。」戦争と前後して軍事力の再編などを目論む時代には、いつも教育への介入があり、全く2012年、現在の状況に酷似していて暗澹となる。

沖縄にも教職員の身分保障をうたう教育公務員二法の立法が必要ではないかと、法案作成のために協力し、立法促進を図ろうとするが、中教審で審議された成案では、教職員の身分保障を含んでいるとはいえ、政治的行為の制限や争議行為の禁止などがあり、勤務評定の実施などの条項があったために、沖教職は、180度の転換をして、その立法阻止に全力を傾注することになった。

1954年には、7年ぶりに教職員労働組合を再結成し、さらに強力に復帰運動に突入するのだが、ここから米軍による激しい弾圧を受けることになる。

1953年1月、沖縄諸島日本復帰期成会が沖縄本島で発足。8月に奄美群島の12月返還が発表されると、沖縄本島では県民総決起大会が開かれ、宮古では教職員会の臨時総会で「沖縄の即時完全復帰」を決議した。

1954年2月になると、「米国民政府による復帰運動に対する攻撃が始まった。復帰期成会会長の屋良朝苗(沖縄教職員会長)の復帰運動に対する理解を要望する書簡に対する米国民政府の回答は、復帰運動は共産主義者に利益を与えるだけであると述べ、『教職員は自動の教育に専念せよ』との警告であった。米国民政府の高官たちは次々と反共演説を行う中で、この年のメーデーには社大党、教職員会等が不参加を表明するという情況が生まれた。教職員会に対しての『彼らは共産主義を教え、共産党員の補給の目的で教育を行っている』という非難の中で、屋良朝苗は教職員会長と復帰期成会の会長の職を辞任した。沖縄諸島復帰期成会はここで自然消滅した。・・・復帰運動は一定の停滞を余儀なくされたのである。」「1954年は、復帰勢力とくに沖縄教職員会に対する米国民政府の圧力があり、それに引き続き、前衛党沖縄人民党弾圧が行われた。

1954年3月、ビキニ環礁での米国の水爆実験は、焼津船籍の第五福竜丸が“死の灰”をかぶり、乗組員23人が被爆し、原爆症と認定されて世界中に衝撃を与えた。人民党瀬長・大城亮議員から提案された「原水爆禁止と原水爆基地反対宣言決議案」は、否決されたが、翌55年8月、立法院は「原子兵器使用禁止要請決議案」を全員一致で可決したが、レムニッツァー民政長官はこの決議を受理せず、この決議文の国連等への送付を拒否した。
 
そういう中で、1955年の米軍による土地強制接収、一括払いによる土地永代占有の画策が進められていった。この年、7月には自衛隊が発足し、10月沖縄人民党は瀬長亀次郎など23人が逮捕されている。

島ぐるみ闘争

1955年、米国プライス調査団が来県、6月9日発表された勧告は、沖縄基地の重要性を述べ、「この島に長期のわたって基地が保有できるし、原子力兵器を貯蔵または保有する権利に外国政府の制約もうけることもない」ことを強調し、借地料の一括払いと必要最小限の土地の新規接収はやむを得ないと述べたものだった。プライス勧告反対闘争は「無抵抗の抵抗」をもって島ぐるみ闘争へと発展した。「沖縄本島各地で十五万人五千人を動員したといわれる六月二十日夜の軍用地貫徹住民大会の那覇大会の美栄橋広場には四万をこえる市民が静かに怒りをおさえて坐りこんだ。そして固い団結を高らかに叫んだ。四月に刑務所から出所した瀬長亀次郎も、高校生も登壇した。・・・宮古島でも教職員会が動き出し、・・・」宮古各地で郡民大会をひらき、沖縄本島に呼応した。「警察の隊長は『警察は民のためにある。われわれも四原則貫徹の戦列に参加することを四者協に示した。』とあるくだりに、私は感嘆する。

「この沖縄県民の決起はまさに爆発的だった。戦後十年間抑圧されてきた県民が、米軍支配に対し総反撃に転じたのである。プライス勧告が『強烈な民族運動のない』と述べた処で起こった抵抗に、米国民政府はおどろいた。島ぐるみの闘いに対し、弾圧する術はとれなかったのである。」しかし、米国民政府は、住民側の運動を分裂させることを策した。さまざまな裏工作を進め、8月8日沖縄本島中部を無期限に全米軍要員のオフリミッツ(立入禁止)地域に設定し、米軍相手の風俗営業者たちの密集したこの地域に経済的打撃を与えて、「9月末には、もえたぎっていた湯が急に冷めたように島ぐるみはくずれていた。」のである。

踏みつけられては立ち上がり、蹂躙されては抵抗し、分断されてもかいなを組む、琉球の先人たちの苦闘と不条理に、書き写す私の手がたびたび止まる。
 
1958年8月6日、原水爆禁止沖縄県協議会が結成。復帰協は誕生する前の大衆運動推進の役割を果たしていた。宮古では、1961年に宮古原水協が結成され、翌年には「米軍通信施設」の反対運動を展開し、米国民政府の工作をはねのけ、阻止している。

1959年1月には、祖国復帰推進県民大会が開催された。復帰運動は質的な成長をつづけ、1960年4月28日、沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成、宮古でも、同日復帰協宮古連合支部が結成され、「『日の丸』、提灯(ちょうちん)をかかげての市内のデモ行進」が行われた。

学力テスト反対闘争

日本本土では、1956年から実施された「学力テスト」は、学力向上の問題として沖縄県全県民に、そして宮古でも、本土に「追いつけ」と教師にあせりを持たせ、対策が計画され、たいへんな熱の入れようであったが、当時の日教組は当初から疑問を投げかけ、教育の国家統制につながるものとして批判していた。1964年、学力日本一を誇る香川や愛媛の実態が、公表された「学テ白書」では「学テに上位を占めるためにのみ・・・子どもたちがテストに攻めにあえぎ、差別教育が日常化して、およそ、子どもたちの成長と幸福には無縁の教育がなされていることをはっきりと知るとともに、学テが、教師を差別する勤務評定と一体となり、学校現場に教育地獄を現出していることをまざまざと見せつけられた。」と語られた。これは、2012年現在の大阪の教育現場の実態を語っているのかと見まがうほど、状況は酷似している。私たちはいつか来た道を歩んでいるのではないか。

宮古でも学テ批判は急速に高まり、教職員会青年部は討議し、全員一致で学テ廃止の運動を確認した。1967年明けて、文部省はついに学テを取りやめることを決めた。「最後までもたもたして、学テ反対に踏み切れなかった沖教職の姿勢の弱さを語ることはやめよう。校長や出版業者が自殺するという悲しい事件までひき起こした学テはかくして葬り去られた。本土でのたたかいは地道に十年間も続けられたのである。」

「騒乱罪」適用の「宮古農民弾圧事件」

「1965年の復帰運動は、全国的統一の機運の中で大きな盛り上がりをみせた。ベトナムへの米国の戦争はエスカレートし、その発信基地としての沖縄基地の使用も活発になってきた。それにともない県民への基地被害も頻度を増してきた。」4月に本土での沖縄解放国民行動に呼応して開催された宮古全域での行進や「祖国復帰要求宮古郡民大会」には小中学校生を含めて、一万人が会場をうめた。大会では宣言のほか、「アメリカのベトナムに対する軍事介入に関する抗議決議」も採択された。
そんな中、8月に「本土と沖縄の一体感を強め県民の本土政府への信頼感を高めるために佐藤栄作首相が来県した。首相を迎える県民の感情は複雑であった。」19日那覇空港に降り立った首相は、後によく知らている「私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって戦後は終わっていないことをよく承知しております」というステートメントを発表したが、復帰後40年の現在にいたっても、沖縄の戦後は終わっていないと言わざるを得ない。沖縄本島では、歓迎の式典の一方、県復帰協は五万人を集めて「首相に対する祖国復帰要求県民大会」を開き、デモ行進をし、首相への直訴のため二万人が首相の宿舎であった東急ホテルに向かった。恐れをなした「佐藤首相は米軍司令部内に「避難」し、復帰協指導部は午前2時すぎに解散宣言を行ったが、その直後約千人の警官隊が、残っていた学生や労働者に警棒をふりかざしておそいかかり、多数の負傷者を出す」という事態が起こった。

宮古にも、21日に歓迎と抗議請願が混沌とする中、首相はやって来るのだが、その一ヶ月もたたない前、7月24日に、宮古では「騒乱罪」が適用されるにいたる「宮古農民弾圧事件」が起こっている。1964年から65年にかけて(サトウ)キビ代値下げ反対運動が農民の間で進められていたのだが、「政府」の勧告により製糖会社が合併承認の株主総会を強行しようすることに怒った農民株主を含む農民たちが、株主総会会場に座り込み、製糖会社社員と一体となった警官隊と衝突。石つぶてが飛び、付近ではカービン銃が発砲された。「群集の圧力におされて・・・

社長は合併のための株主総会を開かないことを約束した」「しかし、群集の一部が、警官隊警の後を追うて警察署近くまでおしかけたことで緊張が起こり、ラジオは三千人の農民が宮古署を包囲していると報じ、デマは乱れとんだ。本土の新聞も宮古島が騒乱状態にあると報じた。」
 
「警察は、この日警官隊を追い投石などをした二十六人を逮捕したが、そのうち九人は未成年
であった。」事件から42日後、全沖農城辺支部長が騒乱罪容疑で逮捕され、その後つぎつぎと逮捕者された8名のうち、7名が起訴された。1審では、1972年4月、沖縄で初めての騒乱罪適用で、被告全員に有罪判決が下され、支部長は騒乱首魁とされ、懲役2年執行猶予3年であったが、2審では、1975年5月、「原判決は全部破棄する。騒乱罪に関する部分については全員無罪」になった。検察庁は上告しないことを決定し、騒乱罪はついに成立しなかった。「逮捕し、騒乱罪を適用することで、農民の立上がりを封ずるという一方側の一定の効果はあり、・・・そのために農民活動家たちは、十年の長きにわたって被告の名をかぶされていたのである。」

佐藤首相の宮古来島 
 
1965年8月の佐藤首相来島にあたって、宮古復帰協は討議し、「阻止もしないが、歓迎もしない」で、「抗議して請願する」という方針を立てた。21日当日、歓迎準備が進められる一方で、「活動家たちは郡民大会の決定に従い、平良市役所付近から税務署付近までの沿道に真紅の組合旗や教職員会の緑の旗、そしてプラカード、のぼり、むしろ旗をおしたてて抗議請願行動に出た。しかし、・・・警官隊にはばまれた。そういう中で歓迎準備委員の取りはからいもあり、・・三人の代表は官房長官に請願書を手渡し、さらに佐藤首相に直接会って抗議請願の主旨を説明した。この間、請願隊は警官隊の規制をふり切り、市役所正門に移動し、そこに集まる多くの市民の唱和を得て、「沖縄を返せ」の大合唱を行い、「沖縄を返せ」のシュプレヒコールを続けた。」(平良市史)
 
教職員会20年史にも「佐藤首相自ら復帰協代表と会い、決議文を受け取るまでに至り、一定の成果をかちとった。この成果は去る七月二十四日の農民の製糖会社合併反対闘争をはじめとする郡民各層の不屈のたたかいの成果である。」と語られている。

下地島に飛行場建設浮上
 
「1968年12月に入ってから、『伊良部村下地島にSST(超音速旅客機)パイロット訓練飛行場が建設されるそうだ』といううわさが流れ出した。すでに米軍のLST(上陸用舟艇)が三度も着岸して測量もすすんでいるという話も伝わっていた。宮古原水協は、1969年2月理事会でこの訓練飛行場建設に反対することを決定した。三月になると、防衛庁内の防衛懇談会の三人の元将官や外務省アメリカ局の北米課長が下地島を調査したり、高等弁務官と話し合ったことも明らかになり、三月下旬、日本航空の小田切常務が来郡し、飛行場の規模(四千米滑走路三本、下地島全島買い上げ)を発表したことから、民主団体の中には、この訓練飛行場のもつ危険性についての認識が深まっていった。」「宮古商工会議所や青年会議所などは経済開発の面から誘致促進の運動を起こし、また、離島苦から解放される絶好の機会だとする伊良部村当局も誘致の方針で動いた。」しかし、宮古原水協と農民の一致した反対運動の結果、9月、総理府は運輸省との間でとりきめた計画を白紙に戻すことをいったん確認したが、10月、反対派への暴力的な拉致や威圧行動がつづき、通産局職員による調査結果の書き換えや、謀略的な策動のもとに、11月4日、革新屋良主席は、与党の反対に耳をかさず、誘致を決定してしまう。

1970年、反対運動はつづいたが、71年になると暴力的な誘致賛成派の脅しは、エスカレートした。「伊良部村は自由に歩けない。」と、「暴力に抑圧されている異常な状況の村内で、議会は賛成地主を含む暴力グループに占領されて恐怖と不安におののく中で、・・」「琉球政府が招聘してさせている調査は機動隊と暴力団に守られてなされ、地主の了解もなく・・・屋良主席が言明した「強制収用しない」とは裏腹に測量の段階ですでに他人の畑を踏み荒らして平気でいるのが機動隊、暴力団、測量団であることを地主は強く訴えており・・・」と異常な恐怖状態を作り出してまで、空港建設に執着する背後には、防衛上の観点と経済的利害で動く人々の姿が見える。

しかし、宮古においても、沖縄本島においても、原水爆禁止運動や復帰運動とあいまって反対運動は継続され、やがて、屋良主席が上京して総務長官・運輸大臣との間で「下地島飛行場を自衛隊に使用させない」という念書「屋良覚書」を取らせる力になるのである。

こうして、下地島空港の開港は、軍事利用の危機を40年間背負って現在に至っている。

「戦後、二十七年間という長期にわたって異民族支配下におかれ、すべての面において軍事優先政策が貫かれてきた沖縄。1972年5月15日、施政権返還といった沖縄県民の願望が実現したということでは、本来なら県をあげて狂喜するほどの歴史的大転換点であったはずであるが、そのような祝賀ムードはなかった。」と、あれほど「日の丸」をかかげて「祖国」を希求した宮古郡民の失望が、平良(宮古島)市史にもはっきり記されており、それから40年、沖縄の状況は、日米両国によってさらなる犠牲と負担を強いられている。

復帰から三ヶ月後の1972年8月、宮古で発表された以下の決議文は、40年後の今の、私たちが直面している課題をまったく言い当てている。数字や政権名、戦争名を変えて、そのまま明日使っても違和のないこの現実が悲しいばかりである。

自衛隊配備反対、基地撤去要求決議
 
独占資本と自民党政府は、アメリカのベトナム侵略戦争に協力加担し、四次防で、およそ五兆円という多額の軍事費を国民の血税から予算化しようとしている。
 
この計画によって自衛隊の侵略的、攻撃的な性格はますます明確になっている。
 
自衛隊は独占資本の利益擁護のための軍隊であって安保廃棄、基地撤去を求める国民の大衆運動を弾圧するものである。
 
日本政府が沖縄の施政権返還に伴って最優先して計画したことは、米軍への軍事基地提供と自衛隊の沖縄配備による沖縄基地の再編拡大強化であった。
 
そして、その目的は日米共同管理と共同作戦によるアジア侵略のためのものである。
 
私たちはこういう現状を許すわけにはいかない。自衛隊は憲法違反であり、軍事基地は県民の平和な生活や自主経済開発の妨害をなし、社会悪の源泉となっている。
 
私たちは平和と民主主義を守るため、平和憲法に違反して戦争の準備を進めている自衛隊の解散を要求するとともに、その沖縄配備に強く反対し、すべての軍事基地を撤去するよう強く要求する。 右決議する。

一九七二年八月九日     
原水爆禁止宮古郡民大会
(平良市史第6巻より)                            

このように追体験をしてみて感じた。全国の市町村史に戦後の廃墟からの立ち直りが記録されていることはもちろんあるだろうが、このように全編、民衆と国家との闘いの歴史であり、今現在もその闘いが進行形である地域は、沖縄県の他にないのではないだろうか。
 
40年後、60年後に振り返ったとき、末裔に感動を引き継くことのできるような変革の闘いの歴史が記録されるのは、沖縄と福島なのだろうか。

引用は 「平良市史第2巻」「平良市史第6巻」「宮古教職員会20年史」より



国策に翻弄される沖縄・宮古「下地島空港」  
2006年11月25日 清水早子(宮古在住)
                          
沖縄知事選挙の後にやってくるもの

11月19日反自公で野党7党が共闘して推した糸数慶子氏が自公の推す仲井真弘多氏に破れた。投票率64.54%で「経済振興」を打ち出した自公候補は34万7303票、「反基地」を掲げた糸数氏は3万7000票差で敗れた。全有権者103万6743人の33.4%にしかすぎない票で沖縄の未来を大きく左右されるという結果を私たちは引き受けなければならない。

知事選の敗因の詳しい分析はここでは本論ではないので触れないが、そもそもマスコミによる「経済振興」対「反基地」という構図の立てられ方に作為的な問題がある。「県外・国外からの企業誘致や基地容認と引き換えの経済振興」策か、「基地に頼らない自立した経済振興」策かという議論は深まらなかったようだ。全有権者の33.4%のそのまた何割かの県民は目先の「経済振興」のニンジンを選択したことになる。

選挙期間中、那覇の平和通りでマイクを向けられたおばさんが、「基地問題は遠いところの話さ」と語っていた現実は、沖縄のさらに遠い離島で今まさに「基地問題」に直面する私たちのボディにちょっとひびくパンチだ。投票日翌日、政府はさっそく沖縄県の公共事業の国負担率を特別に最高95%まで引き上げると交付金の優遇の方針を明らかにした。仲井真新知事に花束代わりのごほうびというところか。

選挙期間中の10月31日、仲井真氏は県政記者クラブとの懇談会の席で、「普天間基地の危険性の早期除去に伴う下地島空港利用の検討」について尋ねられ、「いろいろなことを考えたい。仮に代替施設が完成するまで危険性を放っておくのかというのは難しい話」と下地島空港活用の可能性を示唆している。

下地島空港の成り立ち

北緯24度50分、東経125度10分に位置する沖縄県宮古島。現在、サトウキビや葉タバコなどの農業、牛の畜産、漁業、観光業などの人口5万5千人余りののどかな島である。

その宮古島のまた離島である人口約6500人の伊良部島に陸続きで隣接する下地島に、1968年、空港建設計画が持ち上がり、軍事利用を懸念する島民や土地を奪われる地元住民の反対もあり、島は2分され伊良部では住民の間で殺人事件が発生するまでの大問題となった。そんな中、国は建設を進めたが、1971年当時の琉球政府の屋良朝苗主席は日本政府との間で「下地島空港は琉球政府(復帰後は沖縄県)が所有し、及び管理するもので軍事目的には使用しない」という「確認書」を交わし、民間航空以外使用できない「非共用飛行場」として建設にこぎつけた。しかし、国はその後「管制業務や気象業務」にかかる巨額の費用は出せないとオドシをかけ、「公共用飛行場」として開港することを要請した。

空港施設株式会社の労働組合は「『公共飛行場』は公用であるから軍事目的に門戸を開くことになり、屋良確認書は形骸化してしまう」と指摘し、民間航空会社も円高・オイルショックによって海外でのパイロット訓練が安価になったので「下地島空港の使用は必要ないので建設中止」を運輸省に申し入れたが、沖縄県知事が革新から保守に変わったことも重なり、1979年、3000mの滑走路を持つ下地島空港は「公共飛行場」として開港を余儀なくされた。
 
国が約束した「バラ色の将来構想」

下地島の面積は、約937ヘクタール。空港建設の際、そのほとんどを県が買い取ったのだが、地元地主を含めた住民に国は当時の琉球政府を通して、「下地島を東洋のハワイに」というバラ色の13項目の将来構想を国策として発表し、約束した。

①本空港は東南アジアにおける航空教育のメッカとして有望である
②宮崎県にある航空大学校を下地島へ移転を進める
③航空大学校の校舎および宿舎の建設を進める
④土地を手放し離農した方々が同空港に就労しうる人員は当初144名程度だが2次3次計画で全員が就労できるよう努力する⑤総合病院を設置し本土から多数の専門医を勤務させる
⑥ヨットハーバー・ホテル・ゴルフ場の建設をすすめる
⑦国民宿舎の建設をすすめる
⑧空港専用の港を新設する
⑨航空燃料輸送の設備を整えさらに燃料タンクを設置する
⑩通り池を中心に観光地の開発に努める
⑪村単位に億単位の固定資産税収が見込まれる
⑫下地島には4000m級滑走路が2本とれる
⑬同空港には400~500名の訓練教官整備士その他家族等が常駐する等である。
 
やむなく土地を手放し、沖縄本島に移住した元下地島地主の一人は、地元新聞にたびたび投稿し、こう訴える。「私たち元地主は毎年襲いくる台風や干ばつ等自然災害に毎年苦しめられているため不況から脱するため、国策による島の発展に期待をかけ先祖代々引き継がれてきた僅かばかりの土地を手放した。ところが現実はどうなっているか。」「嘉手納基地および普天間基地からフィリピンでの合同演習ため米軍が燃料補給の名目で下地島空港に毎年のように強行離着陸利用していることに怒りを感じています」と。
 
全個人所有地を全島から県は買い上げたのだが、下地島の40%は飛行場用地、残りの60%約360ヘクタールが「残地」として現在利用されていない。30年近く「バラ色の将来構想」も果たされず放置された土地は、やむなく陸続きで隣接する伊良部島に居住する元地主や島民が「黙認耕作」を続けている。元地主はこう語る。「下地島空港残地については現在県有地であることを十分承知している。が私たち元地主は生きるための生活の糧を求めて生活源はここしかない。県からの黙認耕作を続けて今日に至っているのである」と。

浮上する「下地島残地売却」問題

先の元地主がさらに危機感を表明しているのは下地島空港周辺の残地の売却問題が浮上してきたことにもよる。06年10月25日付沖縄タイムスが「下地島開発5社打診」と報じた。観光や不動産関係の本土企業5社が宮古島市に開発を打診し、うち4社は視察を済ませ、その中でも宮古島市上野でホテルなど観光業を展開するユニマットグループはすでに市に計画書を提出したという。ユニマットは宮古島内で、海岸線を取り込み手広くホテル・ゴルフ場経営を展開している。05年10月の市町村合併以前の上野村にて、ユニマットの高橋社長は住民票を上野村に移し、高額納税のお返しに「名誉村民」の称号をもらっている。同様のことを八重山・西表島においても行っている。西表島でのリゾートホテルの建設を、自然環境破壊を懸念する人々の反対運動や裁判闘争にもかかわらず強行し、その際彼はやはり八重山に住民票を移し、高額納税で懐柔の施しをしている。

本土企業の動きが活発化してきた背景には、大プロジェクトである2012年開通予定の宮古島―伊良部島間の架橋がある。この架橋が完成すれば下地島と宮古本島は直結し、残地の利活用だけでなく、下地島空港の軍事利用にも好要件を与えてしまう。

合併後の新宮古島市は4月「下地島空港等利活用推進室」を立ち上げた。7月は市と県担当部局で構成する「下地島空港残地有効利用連絡会」を4年ぶりに設置し、会合を重ねているが、第2回会合の後、11月8日付地元新聞では、「民間3社が開発意向」とふたたび報道。その中で県は「企業の開発計画と売却が先走るのはよくない。まず市が圏域全体の都市計画を策定することがベターな進め方」と述べ、一方市は「企業からのオファーがある中で早急に残地利用を進めたい」と述べている。
先述の元地主はこうも語っている。「本土企業とどのような話し合いが持たれているのかについては存じておりませんが、前記13項目について沖縄県も充分配慮していただき元地主にも混乱を生じさせないようお願い申し上げる。元地主と県との間に一挙に事の処理をしようとすれば元地主との混乱が一挙に爆発することが充分予想される」と。「裏切られている」という元地主の苦渋の決意がにじみ出ている。

下地島空港を狙う日米政府の動向
 
日米安保条約の地位協定を盾に、米軍はアジアでの訓練の行き帰り給油という名目で1982年以来、空港管理者である県の使用自粛要請にもかかわらず、現在までに330回余り下地島空港に離着陸を強行しているわけだが、建設当初以来本格的に空港の軍事利用の懸念が大きく再燃しはじめたのは、2001年3月、当時の伊良部町長が「自衛隊機訓練誘致」を表明、4月17日住民説明会も町議会での審議もほとんどされない状況で議決された事態である。その10日後に米軍機とヘリが11機下地島空港に飛来。1ケ月後の5月15日にはアメリカ国防省のシンクタンク、ランド研究所が「アジア戦略に関する提言」を公表。その中で「下地島空港の台湾防衛上の戦略的重要性」を主張、米空軍基地としての活用を具体的に提言している。その翌日には再度、米軍機が下地島空港に飛来している。このタイミングの良さ(?)はその後もたびたび見られる。(後述)
 
4月以降、教職員・公務員を中心とする労働組合だけでなく女性グループを含め全島を挙げた反対運動の結果、「自衛隊機訓練誘致」はいったん頓挫した。
 
2003年3月イラクへの自衛隊派兵。04年3月21日、私たちはアメリカのイラク攻撃開始1年目に抗議して市内で集会・デモ行進をした。その数日後、「下地島空港への普天間基地の移設を米側が日本政府に打診」という報道が流れた。5ケ月後の8月13日、沖縄国際大学構内への米軍ヘリの墜落炎上。9月15日には、「下地島空港を日米両軍が補助的な機能として共同使用」と一部報道。9月25日、労組を中心に「米軍ヘリ墜落に抗議・普天間基地撤去・下地島空港の軍事利用に反対」して集会とデモ。10月参院で当時の町村外相は「普天間の暫定的な代替移設地として下地島空港を検討する必用がある」と発言。
 
そして、95年の「米兵による少女暴行事件に抗議する郡民大会」以来の大規模な「下地島空港の軍事利用に反対する宮古郡民総決起大会」を6市町村の行政・議会・私たち住民が一体となり準備している11月10日、宮古近海を中国海軍潜水艦が航行したとわざわざ、初めてのことのように報道があり、11月18日には産経新聞が「17日政府は下地島空港で海上自衛隊の対潜ヘリや対潜哨戒機P3Cなど自衛隊による軍民共用化の可能性について検討に着手した」と報道する。
 
そして辺野古では、ボーリング調査が強行されようとしていた。下地島空港の軍事化の波が押し寄せる11月28日、先述の「宮古郡民総決起大会」は2000名以上の島民が結集して軍事利用にNO!を決議した。しかし、その翌29日には民間機が離発着する宮古島の玄関である宮古空港に大型の自衛隊機が着陸、陸上自衛隊幕僚長ら幹部と運輸業者ら総勢50名が降り立った。前日の「郡民大会」へのまるで威嚇のように。
 
12月10日には、日本政府は米軍再編に合わせた新防衛大綱を発表。「テロとの闘い」に主軸を移した防衛と言う一方この南西諸島に近い中国の脅威と危機感を煽る。さらに翌11日には、護衛艦「おおよど」が平良港で一般公開と体験航海実施、18、20、22日にはかつてない頻度で下地島空港に米軍機が飛来した。怒涛の2004年であった。

暗躍する防衛族の影

「郡民大会」から3ケ月もたたない2005年3月、後に「動乱」と呼ばれる事態が伊良部町で起こる。伊良部町議会で16日、「自衛隊誘致の緊急動議」がたった5分間の審議で9対8の僅差で可決された。22日には、基地誘致派の町議2名がある2名の男と同行して当時の大野防衛庁長官を訪ね、「自衛隊駐留」の要請を行った。この報道は決してお上に物言わぬ島民までを激怒させた。「下地島空港施設労組」「伊良部町住民有志」(これは数日後「軍事利用に反対する住民委員会」となる)「下地島空港の軍事利用に反対する宮古郡民の会」の3者連名で出した「基地誘致派議員」に対する公開質問状への説明会が予定されていた24日、さらにこの議員たちは宮古の5市町村の合併協議会からの伊良部町離脱の緊急動議を出し、合併への道を完全に断ち、自立への道=自衛隊誘致を選択せざるを得ない状況を作ろうと画策した。議場前で怒りの島民と誘致派議員が一触即発の押し問答になった。
 
議員の一人がたかをくくってこう言った。「今晩の説明会に島民の過半数が集まり、総意で反対するなら議会決議を撤回しよう」と。人口6500の過半数を3~4時間で集め、しかも総意で反対しなければならない。誘致に反対する住民は総力を結集した。説明会開始時刻の夕6時。中央公民館には老若男女が押し寄せた。農民も漁民も建設業者も青年会も婦人会も、部活帰りの中学生の一団も。結集した3500名という島の半数以上の人々は会場に入れず溢れていた。奇跡的な光景だった。18名の全町議員が壇上に頭を並べ、激しく追求を受けた。

「島と平和を売り渡したお金で私たちは幸せになれるというのか」と。3時間後、満杯の公民館ホールを埋め尽くす熱気と鳴り響く拍手の中、誘致派議員は翌日の臨時議会で「自衛隊誘致白紙撤回」の動議を出すことと5市町村合併を推進することを約束した。実に明快爽快な直接民主主義の勝利であった。

市町村合併にも自衛隊誘致にも反対するという人々の小さな流れも存在したのだが、二分されるこの大きな流れに呑みこまれる形となった。

さて先に登場した誘致派議員と防衛庁へ同行した男たちとは何者か。なぜ、町議たちが防衛庁のトップに面会できたのか。この2名は、元建設省OBで沖縄北谷にあるの土木・建築・測量業者「富士コンサルタント代表取締役」や那覇市にある「南西諸島安全保障会議理事長」の肩書きなどいくつかの名刺を使い分ける「小幡光俊」と、「パシフィックコンサルタンツ総合研究所」会長の「長野俊郎」だ。

この小幡がたびたび伊良部を訪れ、いったんは住民投票で合併からの離脱を選択した伊良部町の苦しい財政事情に対して「自衛隊誘致をすれば国からの振興策が引き出させる」と商工会や議員に持ちかけている。小幡は3月の「動乱」の後、地元宮古テレビの取材の中で「辺野古の仕掛け人は自分だ。下地島もあきらめない」と厚顔に語っている。

小幡は1987年4月から1年間、現在の「沖縄総合事務局南部国道事務所」の前身で所長を務めている。また守屋防衛事務次官とのつながりもある。守屋は官房長だった2001年5月22日には、浜川町長のほかに津嘉山浩同町議会議長、下地幹郎衆議院議員、砂川佳一、坂井民二両県議、同町商工会の奥浜幸雄会長(肩書きは何れも当時)らの陳情を受けているがこの際、当時の中谷元防衛庁長官は積極的な姿勢を示し、「町議会で自衛隊機訓練の誘致について全会一致で可決してくれたことは心から感謝している。今後、要請については庁内で前向きに検討したい」と防衛庁としても積極的に取り組んでいく姿勢を示していたことがある。この下地幹郎が米国防省へ「下地島を島ごと買い取ってはどうか。夜間訓練も実弾訓練も思いのままだ。」と売り込みに行った話は彼のホームページ上から今は消えているが有名な話だ。反自公の立場で今回、彼は知事選で「反基地」を掲げる糸数候補を支持したのだから、政策協定の中身は摩訶不思議の世界だ。
 
防衛庁へ同行したもう一人、長野俊郎の「パシフィックコンサルタンツ総研」は防衛庁・防衛施設庁が入っている市ヶ谷の「陸上自衛隊」の交差点の目の前に事務所を構えている。
 
日本の国家戦略を研究し、政策提言を行うことを目的とした「日本戦略フォーラム」という民間研究機関の理事長永野茂門の事務所員としてもこの長野俊郎の名がある。この理事長永野茂門は元参議院議員で防衛庁長官や法務大臣を務めた。「日本戦略フォーラム」は、会長の瀬島龍三(元関東軍の参謀)、顧問には小沢一郎(民主党)、石破茂(元防衛庁長官)、笹川陽平(日本財団理事長)他、舛添要一、高市早苗、前原誠司などなど知られた名前が連なる。

建設コンサルタント20数社で構成されるパシフィックコンサルタンツ社グループは国内大手。05年、日本のODA事業で国際協力機構JICAとの不祥事にからんだ事件が明るみに出た。パシフィックコンサルタンツの創業者は吉田茂元首相の兄弟の叔父にあたるという。(参考:新藤健一著『疑惑のアングル』)情報をつなげていくと権力の暗い網の目の一端に辿りつく。

下地島空港を取り巻く現況

05年3月の「動乱」以降、7ケ月後の10月には市町村合併。新生宮古島市の市長・市議選挙が行われた。市長選では自公推薦候補と現職革新市長の一騎打ちとなった。このとき「動乱」の張本人、防衛庁に「自衛隊の駐留」を要請しに行った伊良部町議豊見山恵栄はまるで改心したかのように殊勝な面持ちで、一貫して下地島空港の軍事利用に反対している革新現職市長の総決起大会で顔を並べていた光景の奇妙さを私はまだ覚えている。そして市議選で彼も当選、宮古島市議となり、下地幹郎の地域政党「そうぞう」の宮古代表である。継ぎ目が危うくミスマッチな布を繋いだパッチワークのような脆い少数革新与党の市政の誕生であった。

それから現在に至る約1年、米軍ヘリも姿を現さず表向き静寂な時間が流れたが、06年10月4日、静寂は突然破られた。琉球新報は一面トップで「宮古島に陸自新基地」「09年度200人配備」と報じた。政府の中期防衛力整備計画の中で明記された陸上自衛隊第一混成団(那覇、約2000人)の旅団化(3000~4000人)の一環として09年度をめどに宮古島に新たな約200人規模の部隊を配備させ、新たな基地建設も検討していることが分かったという。

なぜ台湾により近い八重山ではなく宮古島かというと、「八重山より受け入れられやすい」との判断が働いているということらしい。それはなにを根拠にしたどこの判断かは新聞の解説にはなかったが、先述したような「自衛隊誘致」の前科と、選挙行動に見られる「革新」のブレが根拠となっているのかもしれない。

同日、1週間後の「11日にフィリピンでの軍事演習に参加する米軍ヘリが下地島空港に飛来する」という情報が非公式に入った。11日私たちは約1年ぶりの「空港フェンス前」抗議行動となり、軍用機の轟音に向かってシュプレヒコールを繰り返した。

そう、このタイミングは何回目だろう。日米両政府の下地島空港関連の発表や動向が伝えられると、合わせるようなタイミングで米軍機が下地島空港に飛来する。

そして、10月24日には「宮古島航空自衛隊分屯基地に電波測定施設」「既に工事着手」「中国軍の情報収集機能強化鮮明に」と報じられた。宮古島上野には、戦後占領米軍から引き継がれた航空自衛隊レーダー基地があったが、これまでの警戒管制レーダーに加えて06年度予算に観測所設置予算24億円を計上、すでに軍事情報捕捉・分析・蓄積するための地上電波測定施設建設の工事を着工している。これまで、部隊の駐留はなかったが先の陸自部隊配備の動きと合わせて、宮古島の軍事基地化が急激に加速されている。
 
市長は「住民の意見を聞かずに、にわかには配備を受け入れられない」と言うがまた「出来つつあるものについてはともかく、今後は容認できない」とも言い、何とも力弱い発言だ。私たち宮古島ピースアクション実行委員会・下地島空港の軍事利用に反対する宮古郡民の会は労働組合や他9団体連名で10月13日、「自衛隊配備・新基地建設に反対する緊急抗議声明」を記者会見して発した。
 
ほとんど時を同じくして報道された「下地島残地」の売却問題との符号は何か意味を持つのか?売却に名乗りを挙げているユニマットと下地幹郎の「そうぞう」は結ばれているとも漏れ聞く。11月14日、私たちは市の「下地島空港等利活用推進室」を訪ねた。先の「下地島残地」売却の報道によると県の「売却を急がず、都市計画策定をまず」という意見はまっとうに聞こえるのだが、「平和利用」を推進したいと言う「推進室」長はこう言った。「早く民間に売った方が国の狙いをかわすことができる」と。しかし、「転売」にどのような縛りをかけるのか、民間企業の開発計画はどのような内容か、定かではなくこころもとない。
 
行政・市民・元地主が一同に会して「下地島空港と残地の平和利用」について協議する場を設けるべきだと確認をして会談を終えた。

終わりに

インターネットで「下地島空港」を検索してみると、実に不思議な世界が現れる。アニメ「ストラスト・フォー」関連で「下地島基地」という単語がドッと現れる。私はアニメなどには全く疎いのだが、この「ストラスト・フォー」は宇宙戦争を舞台にしているらしい。下地島の紹介がこのようにある。「下地島空港は設定上『天体危機管理機構下地島超高々度迎撃基地』となっている」「現実世界でも、下地島空港が『下地島基地』になる可能性がある。」と。そして下地島の実際の地理や観光紹介もあり、「…下地島空港の滑走路は離島最大で羽田空港並みの3000m。…また、下地島は中国原潜による領海侵犯事件での侵入した航路や日中中間線に近く、国防上重要な場所といえる。…戦闘機の運用が可能な滑走路を持つ下地島空港を軍民共用化しようとする動きもある。しかし、06年10月現在、宮古島市長は反対の立場を取っており、実現はまだ先の話となりそうである。」と残念そうに解説している。
 
飛行機好きスタッフとして実在の軍事評論家「岡部いさく」の名前も登場する。DVDを買うと豪華カラー版「下地島通信」が封入されているらしい。この文章や手の込み様は軍事オタクやアニメオタクのものではないような匂いがする。若いアニメ世代へのサブリミナル効果、遊びながら「軍事国家」教育を楽しませようと金をかけた子供たちへの刷り込みだとすると権力の手の内はやはりなかなかのものだ。教育基本法を改悪して「愛国心」などと盛り込むだけが手ではないのかもしれない。
 
たとえるなら、私たちは田舎の表通りや裏通りの小道を細々とつまずきながら歩むだけだが、闇の裏街道を大手を振って歩む者たちがおり、また、明るい舗装道路を無邪気な仮面を付けて欺いて歩く者たちもいるということになるのか。
 
今、安倍政権とその背後の闇の権力は、中曽根のリメイクを小泉の敷いた布石の上に戦後体制の総決算をおこなおうとしている。かつて闘い今なお闘いの潜在能力持つと彼らが判断するあらゆる組織や運動体を(それが「昔の名前で出ています」的であったとしても)徹底して叩きつぶそうとしているようだ。朝鮮総連、部落解放同盟、日教組、官公労…。そして戦後の民主主義体制の残滓を形にとどめている機構や制度を(これが骨抜きの形骸であったとしても)徹底して解体し、国家の意志を直接に市民社会の末端まで貫徹させようとしているようだ。老人・障害者の医療福祉、地方自治、社会保険庁、教育委員会…と。

さて、このように国策に翻弄される小さな島よ、私にできるのは、せめて路傍の小石を少しでも多く集めて、少しでも遠くまで投げることぐらいだ。時代の闇に近づけ!反撃の小石ども!




                                         



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「平和な島に自衛隊・米軍はいらない!」

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奄美・与那国・宮古・石垣への自衛隊の配備に反対します。


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https://youtu.be/J6TdQK4jjmo

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2015年2月27日「下地島空港を軍事利用しないよう求める」県庁前集会


全国の闘う仲間にお笑いを! 「伝説の闘うエンターテイナー」
ぶつはらゆきお<宮古島映像PR>


伝説の闘うエンターテイナー」ぶつはらゆきお
http://ryukyuheiwa.blog.fc2.com/blog-entry-194.html

稲川宏二さん 与那国島からの報告2016年「宮古島・石垣島の自衛隊配備を止めよう!3・30東京集会」で


おすすめ:

平和を創り出す宮古ネット通信
http://blog.goo.ne.jp/tukurutuusin



「バンタ ドゥナンチマ カティラリヌン!」
与那国島の明るい未来を願うイソバの会+与那国島の自衛隊誘致に反対する住民の会
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石垣島「市民連絡会」チラシ5号

石垣市民連絡会5号チラシ表
石垣市民連絡会5号チラシ裏

石垣島「住民の会」のチラシ4号

石垣住民の会チラシ4号01
石垣住民の会チラシ4号02


石垣島「住民連絡会」のチラシ2号

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ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会のチラシ

宮古軍事化チラシ裏
宮古軍事化チラシ
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3.19宮古島はどうなる?講演会実行委員会のチラシ

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宮古島平和運動連絡協議会のチラシ

0812チラシ表

0812チラシ裏